美と知

 美術・教育・成長するということを考える
( by HIGASHIURA Tetsuya )

ふぉん・しいほるとの娘〈上/下〉 吉村昭著

2010年03月30日 | 私の本棚
シーボルトは1823年6月に、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医として来日。1824年には出島外に鳴滝塾を開設し、西洋医学(蘭学)の教育を行い、日本各地からやってきた多くの医者や学者に講義・・・・というようにその名前はよく知られています。

鎖国政策を続ける幕末の日本で、シーボルトとその弟子達との交流や、国禁ものである伊能忠敬作による日本地図入手、蝦夷や樺太など北方地図入手の経緯。長崎の遊女であったタキと生活し、娘イネが生まれた・・・しかし、*シーボルト事件により国外追放となる・・・というところがこの物語の前半部分。

物語の後半は、混血の青い目をしたイネが、周りの日本女性とは違う自分、シーボルトという偉大な西洋人の娘であるという自分を見つめ、幕末から、明治にかけて男性に混じってオランダ語、西洋医学(産科学)を学び、そして、黒船、尊皇攘夷、大政奉還、明治維新、文明開化といった当時の日本社会で、女性として初の産科医として生き抜いていった生涯が鮮やかに描かれています。

気高い一人の女性(イネ:楠本伊篤)の生き様に静かな感動です。


ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社

このアイテムの詳細を見る


ふぉん・しいほるとの娘〈下〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社

このアイテムの詳細を見る



*シーボルト事件: 1827年オランダ商館長に付添い江戸を訪問したシーボルトは、精力的に幕府役人や民間人と接触し、特に幕府天文方高橋景保と交流を深め、日本地図や蝦夷地の地図を入手する。当時地図の管理は非常に厳しく特に外国人に渡す事は国禁事項であったが、高橋もシーボルトの持つ貴重な情報が欲しく、情報入手の交換条件として地図を渡し国禁を犯す事となった。やがて事が発覚してシーボルトは1829年国外追放となり、一方の高橋景保は獄死、その他多くの関係者が処罰された。 
尚日本の開国に伴い、30年後の1859年シーボルトはオランダの貿易顧問として再度日本に入国、幕府にも招かれ外交や自然科学の講義をおこない1862年帰国する。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« クラス通信 2010年3月19日 | トップ | 新学期です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

私の本棚」カテゴリの最新記事