「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

「虹の新たな紙芝居」―『虹の西洋美術史』

2013年01月03日 | Arts
☆『虹の西洋美術史』(岡田温司・著、ちくまプリマ―新書)☆

  著者の岡田温司さんは、本書は「虹の紙芝居」のようなものであり、絵と言葉の織りなす世界を楽しんでほしいと書いている。ふつう紙芝居ならばストーリーがあると思うが、本書にはそれほど明確なストーリーがあるわけではない。それでも岡田さんの言葉どおり、虹に関するいろいろな絵や、その背景について十分楽しませてもらった。
  年に何回か美術館に足を運ぶようになったのは中年以降だから大きなことはいえないが、虹が描かれた絵画は見たおぼえがない。虹が描かれていても虹に注意が向かなかっただけなのかもしれないが。それにくらべて虹を撮った写真はよく目にするような気がする。ちょっとウェブで調べてみても、虹を写した写真や写真集は相当な数にのぼる。ところが虹に的を絞った画集や美術書は、わたしの知るかぎりなかったように思う。その意味では、本書は現時点で稀有な存在である。
  虹の色といえば、少なくともわれわれ日本人にとっては七色である。実際に七色を判別するのはむずかしいが、どこかで虹は七色のものとして育てられてきたのだろう。虹の七色はニュートンによるプリズムの実験に端を発するとされている。ところが西洋絵画には三色(赤・黄・青)で描かれた虹が数多くある(ときには、ほとんど単色の虹さえ登場する)。ニュートン以前だけでなく、ニュートンの説が広まった後になっても、三色の虹は描かれ続けている。この三色説の由来はやはり、諸学の祖とされるアリストテレスにある。西洋の伝統がいかにアリストテレスの上に築かれてきたか、ここでも知ることになる。
  本書に明確なストーリーはないと書いたが、七色説対三色説、ニュートン対反ニュートン(ゲーテがその筆頭とされることが多い)の対比は、通底音のように本書に流れているとはいえそうだ。この対比はもちろん、科学の範疇に収まるものではない。ニュートン説が支持されたのは、ニュートンがいわば混沌とした世界(色彩の世界もそうである)を秩序立てて説明したからだが、ニュートンに反対する立場は、アリストテレスの伝統から抜け出さず、またニュートンが自然の多様性を無視し、抽象的な法則性に夢中になっているとみなされたからでもある。詩人で画家のウィリアム・ブレイクが描いた「ニュートン」(本書p.103)は、そんなニュートンを見事に皮肉っていておもしろい。
  虹に自然の神秘を感じるといってはあまりに軽い表現になるが、現代人であっても宗教的な感情や崇高さを感じることはあるように思う。滝もまた崇高さを喚起させる存在であり、滝にかかる虹は崇高さをさらに高めたようである。風景画で有名なイギリスの画家ターナーは、本書ではじめて知ったのだが、頻繁に虹を描いた画家であった。ターナーにとって虹は、自然の神秘と力と美しさの象徴であり、また空しさやはかなさを意味するものでもあったという。ターナーはゲーテの影響を受けており、三色説を支持していたと思われる。一方で自然観察や気象現象にも関心が高かったようで、その成果はターナーの作品にも表現されているが、その作品が抽象画のようにも見えるのは、彼特有の詩学によって咀嚼され、捉えなおされているからのようである。
  環境に関する諸科学はふつう人間の外界にある自然や社会を問題とするが、その基盤をなす環境思想では外的自然のみならず、人間の内なる自然にも外的自然以上に注目する。外的自然の現象である虹をこころに映し、虹を象徴的に捉えたのがラファエル前派の画家たちである。ターナーに傾倒していた芸術評論家で思想家のジョン・ラスキンはラファエル前派にも共鳴していたという。そんなラスキンは環境思想にも関わりがあったとする見方もある。岡田さんは虹を描いたラファエル前派の作品を感傷に流されすぎるきらいがあると印象を語っているが、ターナー、ラスキン、ラファエル前派という一連の流れは、環境思想的にも興味深い視点を提示してくれているように思える。一度整理してみたら得られるものがあるかもしれない。
  虹は希望への架け橋であり、虹をつかむことは成功の象徴でもある。その一方で、虹は空しくはかない存在でもある。虹をつかみ成功することは権力の掌握や経済的な繁栄の意味ともつながるが、しかしその光輝は一瞬にして失われるものでもある。岡田さんは、シャボン玉が描かれた絵葉書(p.99)に「バブル」の空しさを見ている。虹は両義的な存在である。虹は科学的な解明の対象であるとともに、神秘的で崇高な存在でもあり、その意味でも両義的である。
  いまわれわれは虹に何を見るだろうか。ニュートンによる虹の光学的な考察は、もちろん正当に評価されなければならない。しかし時が経つにつれて、自然への畏敬の念は忘れ去られ、人間の理性や合理的思考で自然を解明し支配できたかのように思い込んできた。岡田さんは「人間は高を括っていたのである。が、もちろん自然が人間の前にひれ伏すなどということはありえないし、あってはならない。二十一世紀の現代でさえ、天変地異を科学的に予測することは困難を極めるのだ。わたしたちはここ数年、ますますそのことを実感しつつある」(p.115)と書いている。この一文からしても、本書は「虹の紙芝居」ではあっても「古い紙芝居」ではなく、3.11後に書かれた「虹の新たな紙芝居」であることは明白である。

  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天に星、地に花、そして・・... | トップ | 「知るは楽しみ」を超えて―『... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Arts」カテゴリの最新記事