「白秋」に想ふ―辞世へ向けて

人生の第三ステージ「白秋」のなかで、最終ステージ「玄冬」へ向けての想いを、本やメディアに託して綴る。人生、これ逍遥なり。

「積ん読」の擁護か、はたまた悪魔の書か―『積ん読の本』

2025年01月07日 | Life

☆『積ん読の本』(石井千湖・著、主婦と生活社、2024年)☆

 

  能登半島地震の揺れではじまった2024年もあっという間に師走。時の経つのは早い。師走と聞くと何気に気ぜわしい。他人から見れば「暇人」まちがいなしだが、暇人なりに「イマジン」(imagine)することもいろいろあるので。

  そんな師走に、広告に誘われてやっぱり買ってしまった『積ん読の本』! 冗談抜きでこの本も積ん読になるかと思いきや杞憂に終わった。届いてすぐに読んでしまったから。写真も多いので数時間あれば完読できるのが幸いしたのか。いや、やはり読書の達人たちの積ん読の実情に興味津々だったというのが正解だろう。

  とはいえ、登場する12人の「積ん読」の先輩方の著書は、わが積ん読の成果(笑)で確認できないが、たぶん一冊も読んだことがない。そもそも名前を初めて知った(認識した)方も3名ほどいる。それでも、この本はすばらしい!

  本書は積ん読の「欲望」を肯定し、その「罪」を強力に弁護してくれる。反面、欲望をさらに刺激される罪深さもあるにはあるのだが。積ん読の無限ループは本が本を連れてくることからはじまる。本書も例外ではない。角田光代さんが澁澤龍彦の『フローラ逍遙』を紹介していて欲しくなり、マーケットプレイスに「良い」が廉価で出品されていたので思わずポチってしまった。

  本書は諸先輩方の「積ん読」事情(5W1H)が語られていて実におもしろい。積ん読のハウツー本にして積ん読が「人」を語っている。「積ん読」という名の大木から伸びる枝葉は「自炊」(電子化)だったり「オーディオブック」だったりいろいろではあるが、その大木は基本「紙の本」からできている(逆の見方をすれば実際に紙の材料は木だしね)。

  積ん読という「事件」はリアルな現場で起きている! サイバー空間などくそ食らえだ! ちなみにkindleなど1冊も持っていない(いや待てよ、1冊だけ写真集を買ったなー)。個人的に電子書籍は性に合わないだけで、電子書籍読者の方々への批判や誹謗中傷のたぐいではないので念のため申し添えておく。

  積ん読の総量は、たぶん先輩方の足下にも及ばないだろうが、その中身の割合が異なるのは少し残念ではあった。自分の場合、いわゆる理系本(特に天文、物理、生物、科学史など、加えて哲学、思想、心理なども)の割合が多い。できれば理系っぽい人も一人くらい入れてほしかったな。

  関東に住んでいた頃は月に何回かは池袋のジュンク堂やリブロなどへ行って至福の時間を過ごしていたものだが、いまはそれができない。目的は紙の本なのに、いまうろつくのはアマゾンという名のサイバー空間。何という矛盾。経済的に厳しい状況なので、積ん読の山の肥大化はかなり抑制されているが、年単位で見れば床が物理的に侵食されているのは明らか。

  肥大化や侵食を食いとめるには、さてどうするか? 答えはすぐには見つからない。大人になってから、少なくとも2回は本のけっこう大きな断捨離をやった。でも、いまになってみれば後悔のほうが大きい。あの本どうしたっけと思うことがよくあって、たいていは捨ててしまっているようなのだ。へたに「積ん読」の悪魔に抗うと、このような目にあいかねないのだ。

  だから、いまは可能な限り本は捨てないと決めている。とはいっても物理的なスペースは限りがあるので、いずれ対策を考えなくてはならない。もっとも、この歳になると本の断捨離が早いか、わが身の被断捨離(笑)が早いか、という切実な問題にも直面しているわけで…。そんなことを暇人なりにイマジンしているとけっこう気ぜわしくなってくるものだ、などと考えながら読み終えた「積ん読」本だった。

 

  

 


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