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☆『世界がわかる宗教社会学入門』(橋爪大三郎・著、ちくま文庫、2006年)☆
約300ページの文庫本とはいえ圧倒的な情報量である。わたしたちは中学や高校で教科としての「歴史」「日本史」「世界史」を学んできたはずだが、そこで学んだ事象のほとんどに多かれ少なかれ宗教が関わっていたことを思い出してみよう。
それ以前に(中高生時代のわたしのように)歴史年表を丸暗記するが如く授業を素通りしてきたのならば、本書を通じてまずは意識的に歴史を学び直してみてはどうだろうか。宗教は文化や芸術の領域と関連が深いと思う人は多いだろうが、それに留まらず政治や経済とも深く結び付き、複雑に絡み合いながら社会を構成し歴史を紡いできたことがわかるだろう。
例えば本書の「講義1 宗教社会学とはなにか」でマックス・ヴェーバーの著書(論文)『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が紹介され「プロテスタントに特有の「禁欲」の考え方が、資本主義経済の成立にとって不可欠」だったことに言及されている。
そのロジックについては本書の終盤で明快な解説が施され、さらに日本人の勤勉さやキリスト教の信仰を持たない日本人がなぜ資本主義を成功させたのかという問いにも答えている。わたしのように宗教にも経済にも疎い人間にとって、その結論は新鮮な驚きであり新たな「世界観」「宗教観」が自分の前に開けた思いがした。
著者も述べているように思うが、現代の多くの一般的な日本人にとって宗教(とくに仏教)は葬儀や法要などのときにのみ関わりを持つものであって、それ以外で宗教が顔を出すとむしろ胡散臭さを感じてしまう。前者は「葬式仏教」と揶揄される所以であり、後者は「新興宗教」に対する警戒感の現れと捉えることができるだろう。
しかし、このような現象(とくに前者)は世界的に見て例外的なのであって、日本人特有の宗教観で世界を理解することは不可能であり、他の国々や民族に対して失礼極まりない恥辱的な態度とも言えるだろう。それどころか、宗教を知らずに世界と対峙することは自らの生命を危険にさらすことにもなりかねない。
その根本的な原因は、わたしたちが宗教についてきちんと学んでこなかったことにあるとするならば、新たに学び直せば良いのである。冒頭で「圧倒的な情報量」と書いたが、いま「世界がわかる」ためにはこの程度の情報量は必要なのであろう。
もちろんこれだけの情報量だから一読して頭に入るはずもない。再読するとはいっても、何度も読み返すほどの時間的な余裕や気力のある人は正直なところ少ないだろう。ならばどうするか?―事典的な使い方をするに限る!
読書だったり講演会だったり、あるいはニュースを見たときなど、何かの折に宗教的な事象について知りたくなったら、まず本書に当たってみるという使い方である。幸いにも(単行本にはなかったそうだが)かなり詳しい索引が付いているので使い勝手が良いはずだ。それを繰り返すことで宗教に関する知識もしぜんに厚みを増し、いま世界や日本国内で起きている事件の背景も見えてくるかもしれない。
本書は東京工業大学(2024年10月に東京医科歯科大学と統合し「東京科学大学」となった)で行われた『宗教社会学』の講義が元になっているという。小見出しや重要な用語・人名などは太文字になっていて、いかにも講義用プリントや教科書のように感じる読者もいるだろう。
とはいえ教科書を読むように身構える必要はないし、「講義」の合間に挟まれている「コラム」では肩の凝らない(けれども、とても重要な)話題が取り上げられていて興味深い。個人的には「食べてはいけない」(近年よく話題になる「ハラル」の論理について)「愛は混乱のモト」(「ラブ」と「アガペー」のちがいについて)「戒名なんていらない」(「仏教の誤解と堕落の産物」について)の説明にはたと膝を打った。
本書の「文庫版あとがき」で著者の橋爪大三郎さんは「二十一世紀には、宗教のかたちを借りたテロリズムや社会運動が、もっともっと大規模なかたちで起こる可能性が高いと思う」と書いている。「豊かになる可能性を奪われた多くの人びとは何を信じて、この世界を生きればよいだろう」と問いかけ「マルクス主義や社会主義のように、合理的に世界を変革しようという代案が、ことごとく失敗したあとでは、非合理に世界を変革することを夢見るしか、代案がないではないか」と自答している。
残念ながら、この予言は当たっていると言わざるを得ない。いまのわたしたちは、合理と非合理との微妙なバランスを取りながら綱渡りを続けているのが実態なのかもしれない。だからこそ(敢えて単純化すれば)合理の「科学」にも増して非合理の「宗教」を知る必要性が高まっていると言っても過言ではないだろう。