竹端寛,2023,ケアしケアされ、生きていく,筑摩書房.(7.14.24)
ケアしケアされ、生きていく (ちくまプリマー新書)
竹端寛
筑摩書房
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ケアは「弱者のための特別な営み」ではない。あなたが今生きているのは赤ん坊の時から膨大な「お世話」=ケアを受けたから。身の回りのそこかしこにケアがある。
他人に迷惑をかけていい!弱者のための特別な営みではない。社会の抑圧や呪縛から抜け出して、お互いがケアし合う関係になろう。
なにかというと、生産性、能率、効率ばかりが優先され、一元的な尺度のうえに自己と他者を序列化し、自罰、他罰に明け暮れる、そんな人生はむなしいし苦しい。
わたしも、10代のころ、竹端さんと同じように、そうした序列にこだわり、自分で自分を苦しめていた。
加齢とともに経験知を積み重ね、自分が出た学校の受験偏差値上の序列に執着することがなくなり、次第にラクになっていった。
勉強は、所属する学校、卒業した学校に関わりなく、いつでもどこででもできるし、学校歴なんか、カンケーない、そう気付いていった。
生産性、能率、効率ばかりが優先される社会では、それを阻害する者は排除される。
だれもが、排除されないように、「迷惑をかけるな」、「わきまえろ」という不文律に従い、「忖度」し「自粛」する。
そして、自己と他者の権利、尊厳への配慮を喪失していく。
「迷惑をかけるな」「わきまえろ」。こういった命令形は、他者や世間による、自分自身の可能性へのリミッターとなっています。自分がしてみたいこと、興味のあること、気になっていることも、「迷惑をかけるな」「わきまえろ」といった他者比較や他者評価の基準で自己点検し、その範囲内でやっても許されると確信が持てたらする。そうでなければ諦める。
このように、自分自身の可能性にリミッターをかけていくと、どうなるでしょうか。自分自身が他者の顔色をうかがい、理不尽にも耐え、言いたいことも言えず、やりたいこともやらず、他者の意向を優先し、我慢し、それでも地道にコツコツ努力している。周りを見回せば、みんな同じように「迷惑をかけるな憲法」に従っている。それが「当たり前」なのに、その憲法を無視して、自己主張をしたり、わきまえなかったり、好き勝手にしている(ように見える)人は許せない。自分はこんなに頑張っているのに、わきまえない人をみると、自分自身のことが自己否定されているようで、許せない・・・・・・。こんな思いが背景にあるのかもしれません。
自分が我慢しているのだから、他の人も同じように我慢すべきだ。それは、次のようにも言い換えられそうです。
自分の尊厳が護られていないのだから、他者の尊厳を大切にできない。
自分の権利を大切にできないのだから、他者の権利に想像が及ばない。
何か、変ですよね。
そもそも、自分の尊厳が護られない、自分の権利が大切にできていないことが、大間題のはずです。誰だって、楽しく生き心地よく生活するためには、自分の尊厳は大切にされたいし、自分の権利も護りたい。そして、自分だけでなく、身近な他者の尊厳も大事にしたいし、他者の権利も護られてほしい。でも、それが制約されている、我慢している、人生や思考にリミッターがかけられる状態を「そういうもんだ」と受け入れてしまっている。その上で、他の人だってリミッターがかけられていないと「おかしい」と思う。
とはいえ・・・・・・お互いの権利を制約している方が、日本社会がスムーズに回ってしまっているのも、また事実なのです。みんなが我慢して、自己主張を控え、他者の顔色を見て、わきまえて、決められたルールに黙って従い、自己の言動にリミッターをかけている方が、結果的に誰かが命令しなくても、この社会はスムーズに回っていく。それが「忖度」や「自主規制」の論理です。
海外に出かけた後、日本に帰国するたびに、いつもそう思います。電車は時刻通りに着くし、コンビニは二四時間開いているし、ネット通販でも商品は翌日に届いてしまう。ストレスなく移動や買い物ができる。これは日本の常識ですが、世界の非常識です。クールジャパン、ここにあり、です。でも、その負担を誰がしているのか。それは、一人一人の現場の従業員なのです。つまり、社会がなめらかに回るためには、歯車となって我慢して必死で働く個々人が必要になる。真面目な性格も相まって、頑張って無理して、相手の期待に応えようとする。それで社会が成り立っているのだけれど、その裏で、一人一人の尊厳や権利にリミッターがかけられている。「忖度」や「迷惑をかけるな憲法」の方が優先されることによって、自分自身も迷惑を受けにくい。でも、他者に迷惑もかけられない。
それは、共に思いやること、というCaringwithの社会とは真逆の、自分自身に注意や意識を向けられない、だから他者への注意や意識も限定的になる、という意味で、ケアレスな社会だと思うのです。なぜ、そんな社会になってしまったのでしょうか?
(pp.98-101)
これは、社会をなめらかに回すためのルールです。そういった様々なルールに、私たちは従わされる。変なルールでも、ルールはルールなのだから、と。そうやって、ルールが肥大化し、ロボットのようにルールに従い、私たちの自主性が奪われる。でも、空気を読み、同調圧力を気にして、「迷惑をかけるな憲法」に従い、わきまえを大切にし、ガンバリズムを内面化していると、ルールの肥大化に感覚麻痺を起こし、思考停止に陥り、違和感が減っていく。そして、そのルールに従わないマイノリティは、糾弾される。だからこそ、ルールから外れて、「うまくいくかわからないことに対し意欲的に取り組むという意識が低く、つまらない、やる気が出ないと感じる若者が多い」のです。
(p.112)
他者のケアは「他者の他者性」を、自己のケアは「己の唯一無二性」を感得させてくれる。
しかし、つねに、現在が未来のための手段としてないがしろにされることで、そうした気付きがなされなくなってしまっている。
その視点で捉え直すと、「迷惑をかけるな憲法」とは、まさに魂の植民地化そのものです。中核的感情欲求の一つ、「自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい」という思いに蓋をして、「他者を優先し、自分を抑えること」に必死になる姿です。学生たちも私も、制度的な植民地状態に生きているわけではありません。言論の自由が保障された日本社会に暮らしています。でも、「個々人の精神が内部で深く植民地化されている」のです。
その状況を「昭和九八年」的世界と重ね合わせると、以下の「妄想」が生まれます。一九四五年に敗戦を迎え、軍国主義国家による呪縛からは解放されました。しかしながら、「欲しがりません勝つまでは」という植民地化された精神が、「先進国に追いつけ追い越せ」という経済至上主義の形でそっくり残ります。「頑張れば、報われる」「報われるためには、頑張らなければならない」というがむしゃらの論理が蔓延・延命し、猛烈な能力主義的競争の世界に突っ込んでいきます。それが「大成功」したからこそ、世界第二位の経済大国になったのでした。でも、物質的な成功を得た後、精神や魂をどう成熟させるか、の方法論を見失っていた。それがバブル経済の崩壊以後の三〇年の姿だったように私には思えます。
猛烈サラリーマンは、男性中心主義的な会社の同質性に守られ、子どものケアや妻との対話から逃げてきました。そうしたくても、できる時間的余裕はありませんでした。すると、他者の他者性に出会えないまま、会社の論理を内面化していきます。他者の他者性に出会えないので、己の唯一無二性にも出会えません。定年退職をしたサラリーマンが妻に疎まれ離縁を告げられる「濡れ落ち葉」状態になるのは、妻や子どもという他者の他者性に出会えず、己の唯一無二性をも大切にできなかった、その己の「影」の強烈なしっぺ返しのようにも、私には感じられます。つまり、己の魂を植民地化することで、「社畜」として働き、ケアなき世界を生きてきた世代は、定年後にその「影」に襲われ、恐れおののいているのです。
これが「昭和九八年」的世界の閉塞感の元凶の一つなのではないか、と感じています。そんな社会をどう変えていけばよいのでしょうか。
(pp.182-184)
今後、どんなふうに生きていくか。それは、誰にも全くわからない、不確実な情況です。その際、能力主義的な社会を出てケア中心主義の生き方をするということは、具体的なあなたと私が出会って、そこでの対話的関係性を生み出すことからはじまります。他者の他者性に出会った上で、どのようにいまここで己の唯一無二性と関係性のダンスが踊れるか、が問われています。正直、ダンスを始めてみないと、そのダンスはどこに行き着くか、わかりません。
(p.188)
他者と自己への配慮は、オープンダイアローグがそうであるように、「対話的関係性」を実現する。
「対話的関係性」のなかで「他者の他者性」に出会い、「己の唯一無二性」と「関係性のダンス」を踊ることによって実現する、「いまここ」での至高のクオリア(体験質)、これに優る歓びはほかにないだろう。
目次
第1章 ケア?自分には関係ないよ!
「迷惑をかけるな憲法」
しんどいと言えない
自分自身を取り戻す
面倒な中に豊かさがある
第2章 ケアって何だろう?
確かに面倒なのだけれど
自分へのケアと他人へのケア
他者へのケアの前に
互いが気にかけあう
第3章 ケアが奪われている世界
ケアのないわたし
「昭和九八年」的世界
標準化・規格化の「大成功」の陰で
ケアの自己責任化を超えて
第4章 生産性至上主義の社会からケア中心の社会へ
生産性とケア
責任の共有化で楽になる
共に思い合う関係性
ケア中心の社会へ