鈴木涼美,2016,身体を売ったらサヨウナラ──夜のオネエサンの愛と幸福論,幻冬舎.(6.6.24)
随所にキラリと光る言葉が散りばめられた読み応えじゅうぶんのエッセイ集。
あたまが空っぽ、というかあたまになにか湧いているとしか思えない「港区女子」とは一線を画す、親から継承した圧倒的な文化資本の力。
広いお家に広いお庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ。そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくれる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円分のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート・プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(pp.5-6)
凡庸でありたくないと言いながら、思いっきり凡庸なオンナをさらけ出すのは、本心なのか、ネタなのか。
当然、夜のオネエサンの半分は、そんな暴露しないでよろしくやるのだ。家事手伝いですとか、生け花の講師です、とかぬかして。で、残りの半分の半分は、そもそもそんな暴露しないですむ相手と結婚していった。お客さんとか、業界関係者とか。でも、残ったその25%のオネエサンたちは、余計な話を本郷あたりのめんどくさい男にしては悩まれ、しなくていい話を兜町あたりの変な男にしては殴られ、どうでもいい過去の話を汐留あたりのつまらない男にしては婚約破棄され、しないほうがいい話を歌舞伎町あたりのわかりやすい男にしてはカモられ、それでも逞しく、東京に居座っている。それは残念なことである。だって女の子は苦労なんてしないで泣きもしないで、男に厳しく自分に甘く、すこぉしながぁく愛してくれる相手と、命短し恋せよ乙女なんですから。それは頼もしいことでもある。だって、一生は一度で、女の子は凡庸な女の子でありたくない。
私はその、4分の1の純情な感情を支持し続ける。だって私もそうなんだもの。嫌われるよりつまんないと思われるのが怖いんだし、愛より刺激が欲しいんだし、でも愛情も欲しいんだし、普通に好きな人に肩とか触られてキュン死したいのだし、でもどうにもお台場デートとかで満足できないんだし、けどやっぱり大きな窓の小さなおうちで子犬を飼ってそして私はレースを編むのよ横にはあなた的な幸せもたまには味わいたいんだし。
(pp.22-23)
それでも、私たちには、絶対に死ぬまで捨てる気にならない自負がある。私たちの身体は、かつてオトコたちがひと月に何百万も使う価値があったことだ。私たちが注ぐお酒は、居酒屋のバイトが注ぐお酒の何倍も高くて、私たちに会うには、それだけでオカネがかかった。今、私たちの誰も、身体的価値に直接の投資は受けていない。それでも、自分の商品価値は、絶対に忘れない。マリリン・モンローほど美人でもなければ、笑いがとれるほどブスでもない。ライス元国務長官みたいな輝かしいキャリアも、ハンナ・アーレントみたいな才能も、ケネディ大使みたいな血筋もないけど、ヴィトンにクロエにトリーバーチは十分に手に入り、与えられ、期待されるアジェンダがあって、両親とも健在だ。そんなフツウな私たちだからこそ、フツウじゃない価値を持っていたことは重要だった。
(pp.91-92)
ふーん、つまんない自負心だな。
よくよく見れば汚いし少し臭い(笑)自分を買う愚かな男たちを蔑む性根こそが、元パンツ売りの少女だったオンナの自負だったんじゃないの。
あ、それは涼美さんのお母さんの方か。
売っても売っても自分の身体はそのまま残る、これは涼美さんのお母さんの名言でもあったな。
夜のオネエサン方は、思った以上に強かな側面を見せることもあるが、思った以上に脆い側面が露呈することもある。一部のオネエサンにとっては、脆い側面を受け止めてくれるスカウトマンとの関係は、夜の世界にいようと思えるかどうかを占うほどの重要なものだったりする。私も夜のオネエサン時代には、友達より友達っぽくてお兄さんよりお兄さんぽくて時に彼氏より彼氏っぽいスカウトマンによく電話していた。昼の世界だけになると、そんな「後ろから抱っこ」してくれるような人はいなくて、なんだか味気ないな、と思う。でも、最後にヒトミちゃんとデニーズでご飯を食べた時に彼女が言ったことは、今でも時々考える。「仕事してる時とか、たまに、彼に売り払われてる、って感じる時はあったよ。でもさ、売り払った私がさ、仕事終われば彼氏の家に戻ってくるわけじゃん。売り払っても売り払っても、手元に残る私ってなんだろう、変な感じ、と思ってた。身体を売る、とかいうのもそういえばそうだよね、売った身体はそのまま自分のものだもんね」。
(pp.201-202)
最後に繰り出してくれた涼美節にはこころの底から笑った笑った。
ただし、おそらくそこに登場する彼女たちも、描かれる高校生活からせいぜい長くて2、3年その幸福を噛み締めた後、もっと荒唐無稽な20代を経験することになる。根幹にはその「あなたさえ私を必要としてくれれば他には何もいらないの」的な感覚を持ちながら、でもそれは2、3年でとける魔法であるという記憶を元に、やっぱりオトコより自分磨きでしょ的な開き直りで仕事や美容や習い事に励み、どんな幸福も指の隙間から逃げていってしまうの的な絶望でクラブ遊びや深酒や無駄なセックスを繰り返す。そして、オトコ1人に選ばれる以外にオンリーワンになる方法はあるのか、否、ない、ううん、きっとある、と自問自答を繰り返し、やっぱりあなたの胸の中が一番落ち着くとか言って絶頂を迎えた次の月には、オトコなんて本当にいらないなんて言って女友達の家に転がり込み、女同士サイコーとか言って飲みに行った次の朝は漠然とした虚しさに泣いて、思考もファッションもくるくるまわってでんでんでんぐり返ってバイバイバイ。
オフィシャルには推薦できない類いの本ではあるが、若い女の子にぜひ手に取ってもらいたい一冊だ。
まっとうな彼氏がいて、ちゃんとした仕事があり、昼の世界の私は間違いなく幸せ。でも、それだけじゃ退屈で、おカネをもらって愛され、おカネを払って愛する、夜の世界へ出ていかずにはいられない―「十分満たされているのに、全然満たされていない」引き裂かれた欲望を抱え、「キラキラ」を探して生きる現代の女子たちを、鮮やかに描く。
目次
第1幕 愛か刺激か両方か
愛より刺激が欲しいんだしでも愛情も欲しいんだし
身体を売ったらサヨウナラ ほか
第2幕 幸福はディナーのあとで
ハートのエースが出てこない“覚醒編”
ハートのエースが出てこない“僕たちの失敗編” ほか
第3幕 夜が明けたら
モテないオトコは麦を食え
下着にまつわるエトセトラ ほか
第4幕 愛と幸福、或いはその代償
されど愛の生活
嫁さんになれよだなんてドンペリニヨン2本で言ってしまっていいの? ほか