7月号より
「もし絵を描かなければ私はここまで生きられなかっただろう。」
現代日本に生きる巨匠の1人、草間弥生は自らの生涯をそう語っています。
強迫神経症を煩い、幼い頃から自分が他人と違う感覚を持っている事に気付き始め、その葛藤を抱えながら彼女は制作を続けて来ました。
幼少時から見えている特殊な幻覚体験。視界に映る丸い斑点(ぶつぶつ)が自分に襲いかかり、見えている世界が全て斑点で埋め尽くされるような強迫観念にかられていると言います。
彼女はそんな自らの視覚体験を、大きなキャンバスに絵の具で網の目や水玉を延々と描いていくスタイルで知られています。
ただひたすら描いていく。自分にしか解らない心の中の世界。そして自分の幻覚世界は自分にとっての現実であり、自分は生涯そこから逃れられないのだ、という覚悟を持って彼女は生きている。
そして彼女の生き様、気が狂うような反復行為を私たちのような他人がどう介入し、解釈し得るでしょうか。
「こんな反復の絵にどんな意味があるのか」
と多くの人が思うかもしれません。一元的な見方や私たちの限られた経験則だけでは彼女の作品や行為を理解することは難しいでしょう。
しかし裏を返せば、それは強いこだわりや特殊なルーティンワークを持つこの病院の患者さんやメンバーさんたちに対して、私たちがそれらの意味をどう見出していけるかという歩み寄りの行為にも似ています。
デイケアには長年絵を描き続けているメンバーさん(女性)が居られますが、日々描き貯めた絵の一部は、ファイルにまとめられ何十冊にも上ります。
これまで消費してきた色鉛筆の数は恐らく何百本にもなるでしょう。私たちは試行錯誤と失敗を繰り返しながらメンバーと共に活動しています。
そんな中では良かれと思ってやっている行為が、スタッフ個人の偏った常識や思い込みによって、彼女らの表現欲求と可能性の芽を無自覚に摘み取ってしまっていることも無いとは言えません。
これはデイケアで造形活動を行う私自身の戒めでもあります。
何故絵を描くのか、何故造形活動を行うのか。その意味を問い続ける時、行き着く先は必ず、
「そもそも何故自分は生きているのか」
という根本的な疑問にぶつかるはずです。
誰からも認められず自分の生きる意味を見出せないまま生きていくのは、この上ない苦しみではないでしょうか。
しかし制作活動を続けるメンバーの中には、半信半疑で制作を続けながらも、自らの時間と労力と根気を費やした作品から、目に見えない小さな自信と、ささやかな達成感の果実を収穫している人達が居られます。
そして日々の制作から彼女らが何かを達成し、自己承認を遂げていくプロセスに立ち会えることも有ります。
ただ続ける。例えそこに最初から明確な意味を見出せなくても、私達は続ける行為をサポートしていく。
それが積み重なって、連作を並べて見た時に初めて、客観的(又は俯瞰的)視点で何かに気付き、人の生きる姿勢から改めて私たちは何かを学ぶのだろうと思います。
「もし絵を描かなければ私はここまで生きられなかっただろう。」
現代日本に生きる巨匠の1人、草間弥生は自らの生涯をそう語っています。
強迫神経症を煩い、幼い頃から自分が他人と違う感覚を持っている事に気付き始め、その葛藤を抱えながら彼女は制作を続けて来ました。
幼少時から見えている特殊な幻覚体験。視界に映る丸い斑点(ぶつぶつ)が自分に襲いかかり、見えている世界が全て斑点で埋め尽くされるような強迫観念にかられていると言います。
彼女はそんな自らの視覚体験を、大きなキャンバスに絵の具で網の目や水玉を延々と描いていくスタイルで知られています。
ただひたすら描いていく。自分にしか解らない心の中の世界。そして自分の幻覚世界は自分にとっての現実であり、自分は生涯そこから逃れられないのだ、という覚悟を持って彼女は生きている。
そして彼女の生き様、気が狂うような反復行為を私たちのような他人がどう介入し、解釈し得るでしょうか。
「こんな反復の絵にどんな意味があるのか」
と多くの人が思うかもしれません。一元的な見方や私たちの限られた経験則だけでは彼女の作品や行為を理解することは難しいでしょう。
しかし裏を返せば、それは強いこだわりや特殊なルーティンワークを持つこの病院の患者さんやメンバーさんたちに対して、私たちがそれらの意味をどう見出していけるかという歩み寄りの行為にも似ています。
デイケアには長年絵を描き続けているメンバーさん(女性)が居られますが、日々描き貯めた絵の一部は、ファイルにまとめられ何十冊にも上ります。
これまで消費してきた色鉛筆の数は恐らく何百本にもなるでしょう。私たちは試行錯誤と失敗を繰り返しながらメンバーと共に活動しています。
そんな中では良かれと思ってやっている行為が、スタッフ個人の偏った常識や思い込みによって、彼女らの表現欲求と可能性の芽を無自覚に摘み取ってしまっていることも無いとは言えません。
これはデイケアで造形活動を行う私自身の戒めでもあります。
何故絵を描くのか、何故造形活動を行うのか。その意味を問い続ける時、行き着く先は必ず、
「そもそも何故自分は生きているのか」
という根本的な疑問にぶつかるはずです。
誰からも認められず自分の生きる意味を見出せないまま生きていくのは、この上ない苦しみではないでしょうか。
しかし制作活動を続けるメンバーの中には、半信半疑で制作を続けながらも、自らの時間と労力と根気を費やした作品から、目に見えない小さな自信と、ささやかな達成感の果実を収穫している人達が居られます。
そして日々の制作から彼女らが何かを達成し、自己承認を遂げていくプロセスに立ち会えることも有ります。
ただ続ける。例えそこに最初から明確な意味を見出せなくても、私達は続ける行為をサポートしていく。
それが積み重なって、連作を並べて見た時に初めて、客観的(又は俯瞰的)視点で何かに気付き、人の生きる姿勢から改めて私たちは何かを学ぶのだろうと思います。