The Official Blog of Fukushima Zemi

同志社女子大学表象文学部英語英文学科福島ゼミの公式ブログ。まだまだ試作中。中の人はゼミの担当教員です😢 

もう一つ、『Chapel News』より

2022-09-26 13:00:54 | 日記

本日の奨励と関連があるので、調子に乗ってもう一つ(笑)

これは6月に発行された『Chapel News』内の記事(「ことば」)からです。

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ことば(7月)

 

私は同志社女子大学に来る前、東京の理系大学で一般教養の文学や英語を教えていました。そこで知り合った学生のひとりが文学の授業中に言ったひと言が、今も忘れられません。それは、

 

「今の時代は多様性が大事だというけれど、むしろぜんぜん多様じゃない」

 

というものでした。多様性の時代なのにむしろ価値観は画一化しているのではないか、という彼のことばを聞いた時、はっとさせられましたし、その学生を別の授業で知っていたこともあり、その言葉の背景にある「息苦しさ」のようなものがより伝わってきました。彼は人とのコミュニケーションをとることが得意ではなく、その取り方も少し独特でした

 

この出来事は2015年頃のものです。それから7年、2022年を迎える現在の私たちは見えない義務や「標準」という枷(かせ)に、より強く拘束されているように感じます。そしてこの「息苦しさ」は、知らず知らず、人を蝕んでいる。特に若い世代は、一見それまでと変わらない風でいながら、内面では多くの葛藤を抱えています。あるいは、本人さえも気づかないままに時が過ぎ、ある時精神の不調を感じて病院を受診するとうつ症状だと診断された、ということも珍しくありません。

 

村上春樹は「めくらやなぎと、眠る女」という短編で、知らず心が蝕まれていくことを「損なわれる」ということばで表現しました。義務だらけの世界、守らなければいけないことばかりに追われている環境では、ひとは次第に日々をやり過ごすようになり、「損なわれ」、何も考えることできなくなってしまうでしょう。

 

今回引用させていただいた聖句(マタイによる福音書 23章1節-4節 ※文末参照)は、一見、今私が述べてきたことと関りがないように見えるかもしれません。しかし、律法学者やファリサイ派の人々が律法という「ルール」、あるいは「正しき」ことを声高に叫ぶ世界の「あり様(よう)」は、現代のルールを至上とする日本の状況に大いにつながっているように感じます。「重荷」を人に課すことは簡単です。しかし、「指一本」貸すことなくそれを人に課すことの意味を、わたしたちは改めて考える必要があります。コロナ3年目の今、自由と愛の意味を今一度自らに問いかけたいと思います。

 

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。 

(マタイによる福音書 23章1節-4節)

 

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本日9/26の奨励原稿

2022-09-26 12:43:43 | 日記

拙くはありますが、今の私の考えなので、本日の奨励原稿をこちらに掲載しておきます。

担当教員

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ルールは大切だけれども……

 

 おはようございます。夏休みも終わり、今日から秋学期が始まりました。皆さん、どのような心境でしょうか? 夏休みを楽しむことはできたでしょうか? 新型コロナウィルスの再拡大や、ゲリラ豪雨・台風による災害など様々なことが起こりましたが、少しでも夏の休みが皆さんにとって心に残る良き思い出であることを願っています。

 

 さて、本日は「ルールは大切だけれども……」ということで、「ルール」というものについて少し考えてみたいと思います。学期冒頭の奨励として少し奇妙なタイトルかもしれませんが、少々お付き合いください。

 

 方々でしゃべっているのでご存じの方も多いかもしれませんが、私には現在幼稚園年長の息子がいます。やんちゃですが、とてもかわいい5歳児です。ただ、3月15日と早生まれということもあり、ここまで育てるのにはとても苦労しました。幼稚園の<ルール>についていけない、あるいは理解がなかなか進まなかったのです。当初はとても悩み、いろいろな発達相談も受けましたが、やはり早生まれというのがとても大きな要因なのだなと最近は思うようになりました。考えてみれば、すでに4歳の同級生もいる中で、3歳で幼稚園に入園することになるのです。その割合を今の皆さんに当てはめてみますと、20歳の大学生の中に15歳の中学生が混じっているということになるでしょうか。大人からすればたかが1年の差ですが、この差は大きいです。

 

 これはとても卑近な例ですが、多様性というのは本当にこんな些細なところにも存在し、そしてそれはしばしば<見ない弱者>である、ということを示しているように思います。

 

 しかし今、幼稚園や保育園ではプレ小学校化が進行しています。小学校に入る前に<ルール>を叩きこもうというのです。<ルール>というのは、どうしても多様な人びとを一様に扱ってしまわざるを得ません。多様性が謳われる社会ですが、実際のところ社会はむしろ<ルール>のような一様性を重視する方向にも進んでいると言えます。

 

 ルールという言葉はとても馴染みのあることばですが、実は英語由来であるこの「カタカナ語」によって、ある意味でその意味を深く考えずとも使えてしまう類のことばです。試みに英語辞書を引いてみると、ルールという言葉は日本語で一般的に思いつくことのできる「規則」「法則」のほかにも「規範」「習慣」、そして「支配」や「統治」という意味を含み込んでいます。

 

 こうした問題は皆さんも関心のあるジェンダーの問題とも関係してきます。日本はgenderギャップ指数が146か国中116位であり、当然こうした<慣習>や<支配>の問題は山積みとなっています。

 

 もしかしたら皆さんの中にはそれほど男女間の差異、ジェンダーギャップを感じていない人もいるかもしれません。しかしそれは、日本が教育の分野では世界でも有数の男女平等が進行している国だからとも言えます。私のゼミ生は、営業職の面接で「なぜ女性なのに君は営業職を志望するの?」という何とも旧態依然とした質問をされたそうです。大人になればなるほど、日本は女性にとってもキツイ社会の顔を見せるのです。

 

 ただし、実際のところ、男女平等を実現してきた西欧でも、問題は数多く残されていると言います。

 

 最近、リン・スタルスベルグさんというノルウェーのジャーナリストの女性が書いた『私はいま自由なの?』という書籍を読みました。2013年に出版され、2021年に日本語に翻訳されたものです。ノルウェー語なので原書の存在はこのように翻訳されるまで知りませんでした。ノルウェーと聞くと世界でも有数の男女平等の国、gender equalityの進んだ国との印象があります。実際、国連の調査でも世界第三位で、すでに男女平等が達成された国のように私たちは錯覚してしまいます。しかし、実態は異なっているとこの本の著者スタルスベルグさんは問題提起しています。確かに子供を1歳から保育園に預け、男女がフルタイムで働けるようになった。しかし、現在でも家事・子育ての多くは女性が負担している。そして、仕事と家事・子育ての両立に忙殺されてしまうが、年金を減額されてしまうため、パートタイムの仕事に就くのは経済的に厳しい部分がある。しかも社会は女性もフルタイムで働くことを当然視する雰囲気があり、パートタイムや主婦になることは落伍者のように扱われてしまうと言います。子どもとの時間を優先したい、泣きじゃくる子どもを保育園に置いておきたくはない、しかし他にやり様がない。このジレンマをノルウェーの女性たちも感じているというのはとても驚きました。

 

 ルールは万能ではありません。ルールからは常にこぼれ出てしまうものがありますし、ルールはしばしば<慣習>や<支配>的なものとして過剰に働いてしまう場合もあります。大切なのは常にそれが妥当なものなのか中身を点検するとともに、そこからこぼれ出たものへのまなざしを忘れないことです。<決まったものはショウガナイ>というような態度ではなく、ルールそれ自体を常に問い直す姿勢が大切なのではないでしょうか。

 

 今回の聖句(ルカによる福音 18章 第9節-14節)もそのことを教えてくれます。イエス・キリストのすごいところは、律法至上主義、ルール至上主義の人たちが多くを占める当時の社会で、それではだめなんだ、愛が、愛という中身こそが大切なんだと訴えたところにあると私は認識しています。

 

 自己責任として個人にすべての責任を負わせてしまう風潮は日本でももうずいぶん前から問題となっていますが、特に若い皆さんの中には内面化されてしまっているかのうようにも感じます。その一方、真面目な学生さんは、ルールに過剰にとらわれすぎ、その中でうまく物事を進められない自分自身を責め、逆にメンタルを壊すことにもつながってしまっています。グローバル資本主義は息もつけない競争社会。ガンバリズムです。常にポジティブが求められる世界では、常にプレッシャーにさらされ続けます。しかし、いい時も悪い時もあるのが人生。

 

 新学期、そのことを心に留めながら、皆さんと共に歩むことができればと思っています。

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新学期の奨励

2022-09-26 11:43:23 | 日記

本日9/26より秋学期が始まりましたね。

昨年に引き続き宗教主任として新学期奨励を担当しました。

出来は、、、微妙でしたね>< 

何より夏休み明けで、口がうまく回りませんでした(噛みまくり…)。

明日以降の授業までに一生懸命口の体操をしておきます。

担当教員

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仕方ないことですが、本来ならば…

2022-09-20 15:47:19 | 日記

本来ならば9/19から20の日程で琵琶湖リトリートセンターで同女で初めてとなるゼミ合宿を実施する予定でした。

しかし、台風14号という過去最大級規模の台風の到来のため、中止とせざるを得ませんでした。

 

もちろん、台風という状況で実施するという判断はあり得ません。

しかしながら、学部2回生からコロナに翻弄され続けた4期生が、コロナに細心の注意を払いながら初のイベントへ知恵を絞ってきたことを考えると、何とも言えない思いに駆られます。

またコロナ禍3年目となり、どのような形でゼミ生同士の議論の深まりをさらに作っていけるか、

学生とともに4月より模索を続けてきましたことの一つの実践としても、この合宿が流れてしまったことは残念でなりません。

授業内の発表では自発的な質問もかなり出るようになり、ディベートやディスカッションでは盛り上がりを見せることも増えてきましたが、

もう一歩踏み込んだ議論をするために、何かが足りないようにも感じていたからです。

 

今の世代、あるいは日本という文化的特性かもしれませんが、深い議論、あるいは対立する議論の仕方には心理的抵抗があります。

「多様性」という言葉はとても大切ですが、

現在の日本ではそれは「意見を異にする人とは関わらない」という形で広がりを見せているようにも思います

(これは学生に限ったことではなく、私を含む大人の社会でもそうです)。

 

そこを超える一つのブレイクスルー・ポイント(より相手を知ることにより、意見する障壁を少しでも取り除くこと)

としても合宿を考えていただけに、学生の楽しいイベントがつぶれてしまったことに加えて、教員としてその点にも心残りがあります。


とはいえ、台風という自然現象は仕方のないことですし、またこの災害において被災された方を想うとき、

こんなことを書くのは申し訳ない気持ちにもなります。

気持ちを切り替えて、秋学期をより充実したものとするべく、

合宿を前提としていたプランを早急に修正してより良い授業を提供していきたいと思います。

4期生のゼミ生の皆さん、一緒に頑張りましょう!!!


担当教員

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高校生向けミニ講義の様子が大学HPに掲載されました

2022-09-03 10:36:27 | 日記

8/23に高校生向けに行ったミニ講義の様子が大学HPに掲載されています。

上手くいったかはわからないけれど、それでも伝えたいことだけは何とか伝えられたかなと思います。

ただお客さんにあまり来てもらえず、大学の広報としては貢献できませんでしたが……

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/regional_general/news/17770

三年ぶりの東京、こんなに都会だったっけ!?っと、お上りさん気分で丸ビルの写真など取ってしまいました。

恩師や教え子に会えたらよかったのだけれど、それはまたの機会を待ちたいと思います。

会場の新丸ビル

ホテル近くのスターバックス・リザーブ(銀座)。クロワッサンうまし。ただめちゃ高いけど。

 

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