3月15日(土)13:00より、〈3.11〉について考える「てつがくカフェ@ふくしま特別編4―震災・原発事故3年目の福島から考える―」がコラッセで開催されました。
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参加者は48名。
震災・原発事故に対する関心の高さがうかがえます。
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今回は第1部でシンポジウム、第2部で哲学カフェを行う二段構えで開催しました。
第1部では牧野英二さん(法政大学教授)のご著書『「持続可能性の哲学」への道――ポストコロニアル理性批判と生の地平――』(法政大学出版局)を手がかりに、それに対して哲カフェの世話人・小野原雅夫(福島大学教授)と、山本英輔さん(金沢大学教授)、齋藤元紀さん(高千穂大学教授)、石井秀樹さん(福島大学特任准教授)らが報告をする形式をとりました。
司会は相原博さん(法政大学兼任講師)です。
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それぞれのご報告は大変興味深いものでしたし、コメンテータ同士の応答が大変刺激に満ちたものでした。
残念ながら、これらの報告に関して会場とのやりとりに割く時間が足りませんでしたが、いずれ、この内容についてはシンポジストの一人でもあった小野原からまとめた報告文がアップされることでしょう。
ここでは第2部の哲学カフェの議論に限った報告にとどめることをお許しください。
今回の議論は、ホワイトボードが3枚にもわたる白熱した議論が執り行われました。
テーマは「忘れる力は必要か?」
震災・原発事故から3年目を迎え、もはやこの出来事が風化に晒されそうになっている問題を提起させていただきながら議論に入らせていただきました。
まずは、「忘れる力の反対はなんだろうか?」という問いかけから、それは「覚えていること」や「記憶していること」と思いがちだけれども、むしろそのように意識的自覚的に覚えていることではなく、忘れていたある衝撃や体験を「思い出すこと」なのではないだろうか、という意見が挙げられます。
人間はいくら覚えていよう、記憶にとどめておこうとしても圧倒的多数は忘れていくものでしょう。
だから自覚的に覚えていようとすることが「忘れる」の反対語だと考えがちですが、その忘却の穴に落ち込んでいた記憶が立ち上がっていくことそのものが「忘れる力」の反対だというわけです。
これが自覚的に立ち上げる能動的なものなのか、ふとある香りを嗅いだ瞬間に記憶が呼び覚まされる受動的なものであるのかは興味深い点です。
別の参加者からは、まず「個人の記憶」と「共同体の記憶」のレベルがあることを分けた上で、「個々人には忘れることは必要だ」、けれども忘れられないものだけが記憶に残っていく一方で、「忘れてはいけない記憶」があるじゃないか、といいます。
これに関して別の参加者は、「責任能力」というものが「忘れてはいけない記憶」に関係するのではないかと言います。
犯罪行為が行われたことを忘れることは、また同じ過ちを繰り返させてしまうのではないか。
責任を問われることは忘れてはいけないというのはこのような意味でも理解できます。
また、その意見に対して別の参加者からは、「出来事」に近ければ近いほど忘れないのではないかとの意見が挙げられました。
この意見によれば、体験したものだからこそ、出来事の意味をよく知るのに「より適切な場所にいる」ことになります。
しかし、その反面で、その発言者は「朝鮮半島の植民地化」などの事実は、わりに忘れやすいものだと言います。
それはつまり、自分の体験から遠いものであるからだし、だからこそ「出来事」の当事者はそれに向き合う責任が生じるものだと言います。
出来事の内部にいる人間は、そのつらさや過酷さを生身で体験しているがゆえに、それを外部の人間に伝える責任があるのだ。
しかし、内部にいる人間がもっともよく知っているというのは本当なのでしょうか?
そもそも「内部」とは何か?
原発事故を「内部」で体験した人間とは誰のことなのか?
原発避難を余儀なくされた地域の人々なのか?
高線量汚染に晒されているにもかかわらず強制避難区域には指定されなかった地域なのか?
ホットスポットが見つかった関東地方の地域なのか?
こうした議論も含めて、しかし「忘れてはならないこと」が未解決のままに残されているのは現在でも変わらないわけですが、そうであるにもかかわらず「考えなくなっている」、「思考を止めてしまっている」、このことそれ自体が「忘れる」ということではないかという意見が出されます。
しかし、それは他方で過酷でつらい経験をいつまでも思い出していては生きること自体が困難になってしまうでしょう。
そうであるがゆえに、「忘れること」は「生きるために」必要なことだと言います。
したがって、個人には「忘れる権利」がある、しかしそれに対して共同体が存続するためには「忘れてはならない記憶」というものが必要だし、その責任はむしろ、先に挙げられた意見とは真逆に、もっとも忘れそうな立場にある「当事者以外の人々」にこそ求められるべきだという意見が出されました。
しかし、出来事の記憶を残すにしても、ただただ個々人の体験を語り続けるだけでは、けっきょく何も残らないのではないか。
それらの出来事を忘れないためには個々人の経験を超えた普遍的な意味をつかむ必要があるのではないかという意見が出されました。
つまり、「出来事の意味」という点において、何を語り残せるかが重要だということです。
人類が経験したことのないような原発事故(たしかに海洋汚染という意味では、チェルノブイリの経験も参照できない環境破壊をもたらした事故と言えるでしょう)は、様々なものを暴露させたのであり、そのことを次のステップに行くためには、忘れてはいけないも普遍的な意味があるというわけです。
その一方で、「忘れる」とは何かに関して、別の参加者は、自宅の周囲におかれた除染後にブルーシートをかけられた汚染土を見るにつけ、やっぱりあの出来事や放射能のことは忘れたいと思っている自分がいるといいます。
にもかかわらず、忘れようとすればするほど、忘れられない。
つまり、能動的に忘れることはできないことに気づかされたと言うのです。
記憶というものは忘れたくないと思っているものほど意外と忘れてしまったり、忘れたいと思っているものほど忘れられないという点で、人間のコントロールの範疇を超えたものなのかもしれません。
あるいは、別の参加者は、失恋の経験を挙げながら、それがつらい経験であることから素敵な思い出に変わることがあるのだから、その出来事そのものに対する「思考を切り替えること」によって、前向きに出来事と向き合えることができるだろうと言います。
したがって、記憶を残しつつも、それによってつらい経験が素敵な思い出に帰られるという点で、「忘れる」とは思考を切り替えることでもあるということになるとのことです。
すると、ある出来事を忘れさせようとする人々は、「別の思考」を持ち出しながら、その時どうとらえたかを別の解釈を導入しながら上書きを施した記憶をもたらします。
そして、その途上において記憶は上書きされながらあるものを捨象させられていくというわけです。
ここまでは、過酷災害に遭った個々人には忘れる権利があるとはいえ、共同体の記憶においては共同体そのものを持続させるための記憶が必要であり、そうした意味あるものとしての記憶は忘れるべきではないという議論が展開されてきました。
学校で地域社会で国家で。それは、いわば「教訓」として物語る形で残されていくということでしょうか。
しかし、果たして「意味がある」記憶だけが残されていくというのは本当でしょうか?
それについて、別の参加者は「痕跡として」記憶を残すあり方もあるのではないかと言います。
痕跡とは何か。
いわば、ラスコーの壁画のように当時からの文脈のある物語のようにではなく、岩壁に刻まれたまま、しかし何かが残されているような記憶の残骸のようなものです。
それについて、その発言者は物語が語られ得るような内部にではなく、記憶を「外側に刻む」や、「意味をはみ出す」という言い方をします。
「意味をはみ出す」とは秩序だった記憶の物語の意味からはみ出すということでしょうか。
あるいは、「忘れるべきではない記憶」といった「意味ある」記憶の部類からはみ出す記憶のことでしょうか。
いずれにせよ、人類の歴史のほとんどは忘却に晒されているわけですから、逆に残された記憶の数々が「意味あるもの」だとすれば、その意味をはぎ取られた、あるいは意味を与えるに値しない記憶を、いかにして残しうるか問題化した点で興味深いものです。
この意見に触発された別の参加者は、その「痕跡」を「万葉集」に見出します。
それによれば、「万葉集」こそ、故郷喪失や死をめぐるトラウマだらけの記憶の集合体であり、その点で柿本人麻呂は挽歌の天才だったと言います。
あるいは戦争遺構のように、意味をはぎ取られたような残骸のようなものこそ「痕跡」というべきものだとも言います。
また別の参加者はこれを受けて、鴨長明の「方丈記」を想い起したと言います。
この世のむなしさをうたったそれらの文学は、まさに誰も語る人がいなくなった共同体の記録を、意識のどこかに歌として根づいていたものを掘り起こすものとして、第1部で論じられた「情感豊かな理性」と結びつくのではないかと言います。
これらは、その点で「意味からはみ出す」ものを救い出すような文学作家だったと言えるでしょう。しかし、他方で、これらの言葉、物語が共同体に回収する危うさはやはり拭いきれません。
これら「意味をはみ出す記憶」たちが、いったん意味ある共同体の物語に組み込まれるやいなや、それらは共同体の存続に都合のよい記憶として利用される恐れがあるわけです。
そのことを古来日本人の心の表現として「万葉集」が、ナショナリズムと結びつく恐れもあるのではないかとの指摘がなされました。
「学び」や「意味」のある記憶は、実はそれ自体が忘却の危うさをはらんでいるのではないか。
そのことについて、文学に携わる別の参加者は、「意味づけることの方が忘却に加担するのではないか」と指摘します。
たとえば、震災・原発事故を「3.11」という一言で名づけることは、それ自体が記号化しており、さらに「9.11」という出来事と言葉のリズムとしても響きあう符牒めいた用いられ方は、言葉によって忘れないようにしながら、その実、私たちの個別的な経験や体験が切り取られているのか疑わしいと言います。
言い換えれば、個別単独である「私」の感覚と異なるものを「3.11」という言葉で記号化することで、ある種の神話化に加担させられているのではないだろうか、というわけです。
むしろ、その発言者にとっては「3.14」(福島第一原発3号機の水素爆発があった日)の方がよほど重要であったとのことです。
すると、「言葉」というのは、ある種の記憶装置でもあると同時に忘却装置でもある両義性を孕むことになります。
これまでの議論が「意味のある記憶」こそ忘れてはならないという展開であったのに対し、「意味を与えること」が逆に無意味とされる記憶を忘却させてしまうということになります。
この考え方に対しては、いくつか反論や疑問が付されています。
その一つは、言葉による意味の記号化は忘却を招くというけれど、けっきょく意味は言葉にしなければ意味がないのではないかという反論です。
というのも、「言葉」とはそもそも共同体の中で成立するものである以上、共同体において忘却を防ぐためには無理やりにでもしないと、けっきょくは「なんとなくの雰囲気」しか残らないのではないかというわけです。
また別の参加者からは、意味づけと記号化がごっちゃになっているのではないかという指摘がなされ、それは「記号化すべきではないという意見なのか、それとも記号化を認めつつ注意せよということを言いたいのか」との問いが投げかけられました。
それに対し、質問を受けた参加者は、言葉による記号化、例えば「東北」という言葉に一括りにされることで、福島や宮城、岩手、あるいは被災の個別性が失われてしまうことを懸念しつつ、むしろ「沈黙」や「語られないこと」に耳を傾けることの重要性を喚起したいと応答しました。
「3.11」という記号化された出来事でも、やはり地震・津波といった「自然」による被災は忘れられることもやむなしだけれども、人災である「原発事故」はそれとは種類が異なり、決して忘れてはいけない出来事であると言う意見も挙げられます。
これは冒頭で挙げられた「責任」と「忘れるべきではない記憶」という問題と関係するでしょう。
また、第一部の「持続可能な哲学」というキーワードと結びつけるならば、こうしてみんなで語り、考え続けることで意味がなくなるような危険を避ける努力が必要であり、その意味で「忘却」の反対は「文化を生み出すこと」であり、「記憶」とは「創造的」な営みであるとの意見も挙げられました。
「創造的」という点では、たとえば「原発観光地化計画」や福島原発跡地を「原発神社」にするなどメモリアル化の創造を通じて記憶を保持しようとする試みに注目してよいのではないかと提起します。
この「創造性」から「傷」というキーワードを導き出す意見も出されました。
「絆創膏」とは「傷」を防ぎ、新たな細胞を創り出して傷口を修復するまで覆う役目があります。
この震災・原発事故によって「人為の裂け目[傷]から見えた自然」、すなわち「人間がコントロールできないもの」が出来してしまったことを踏まえ、この傷口を塞ぐものが、ある種の宗教的なものではないかというわけです。
さらに、その発言者はこの傷を「スティグマ」、つまり聖なるダークな痕跡と名指します。
それは、いまでは普段気づかない傷だけれど、まったく癒えていない。
癒えていない以上、これを塞ぐためにはどうすべきなのか?
震災前にはうまく回っていたように見えた大きな袋の傷口に絆創膏を貼って、昔の形にするか、新しい形にするかが問われているのが今だというわけです。
すると、別の参加者から1,2年目は放射能まみれで早くこの現実をみんな忘れてくれたらいいなぁと思っていたという意見が出されました。
そして、時間の経過とともに周囲の人々が忘れ居ることにしめしめと思っていたとも言います。
商売する人たちにとっても、早く忘れてほしいなと思っていたのではないか。
そんな風に思っていたのだけれども、実際には忘れても問題は継続している以上、最も被害を被る人たちというのは、忘れたことによって汚染された食品を食べてしまったりする人々なのではないだろうかと言います。
このような議論が展開される中、そもそも「忘れる力」という言葉にはやはり違和感を抱くとの意見も挙げられます。
あるいは、「忘れる力」なんて福島に生きる人間に必要ではないと思っていたけれど、この「3.11」を血肉で体験してしまったことから、その考え方が転換してしまっとの意見が出されました。
ふと、そのことが顕在化するとつらくなる時もあるけれど、実は県外に避難したものの苦悩の方が辛いのではないか。
というのも、福島から避難した人たちは、いま、福島がどうなったかも割らないだけでなく、放射能汚染リアリティが消えてしまっているという話を聞くと言います。
だからこそ、ここにいる我々は真正面からこの問題に向き合うべきではないだろうか。
原発事故によってパンドラの函が開き、地獄の蓋が開いてしまったことを私たちは「見てしまった」。
「見てしまった」以上、我々はそれを外に伝える責任がある。
それが「フクシマ」人として生きることを引き受けるということであり、自分と戦いながら伝えていくということではないか、という重い決意が表明されました。
その一方、当事者にも部外者にもなりえない位置にいたという参加者からは、罪悪感を抱く思いが語られながら、言論人・文化人が「〈フクシマ〉に向き合う」や「当事者に寄り添う」とまとめてしまったが故の危うさが感じられるとのはなしが出されました。
言い換えれば、「「フクシマ」を忘れない」ことを利用する人々がいるのであり、それはこの後にさらに大きな出来事があったとき、実はこの出来事がぶっ飛んでしまうのではないか、と言います。
この話を聞きながら、私は以前、研究者である友人から「福島が学問の植民地化にされている」という話を聞いたことを思い出しました。
「フクシマ」が消費されていると言ってもいいでしょう。
震災直後、ある集会で研究者に対して市民が、福島を研究のために消費していることを糾弾した場面があったことも思い出しました。
このことを話題にしたところ、第1部でご報告いただいた牧野さんから、まさにご自分が「3.11」を題材に今回シンポジウムで取り上げられた本づくりに取り組んだことは、「フクシマ」を「商品化した」ことに他ならないことが告げられました。
当事者でもなく、外部から来た人間がこうして被災地を商品化することの苦しさを吐露されながら、しかしそうであるにもかかわらず、少なくともそのことを自覚しながら当事者とともにこの問題を伝え、語り合うことをせずにはいられないことが告げられました。
これに近い思い方は、以前にも東京から参加される別の参加者から伺ったことがあります。
その告白とも言うべき発言に対し、福島に居住する参加者からは現地の人間の本当の想いを知りたいならば、やはり福島に住むべきである、
年に一度来ただけでは被災地の思いなどわかるはずもないのだから、この地に移り住むことを進める発言も出されました。
福島の内と外。
震災・原発事故の経験の有無。
避難した人間とこの地に止まった人間。
こうした区分によって、しかしそれぞれに複雑な罪悪感や苦悩があることは、すでに避難者の思いに触れた発言にも見られました。
果たしてこうした内/外の区別は妥当なのでしょうか?
真にこの出来事の核心にいた人間とは誰のことなのでしょう?
体験した人だけが、真にその出来事の意味を知るものなのでしょうか?
その内部で体験したものだけが出来事を忘れえないのでしょうか?
その人々だけが忘れてもよい権利を持つのでしょうか?
「忘れる力」を問うには、この問題圏を避けては通れないようです。
しかし、最後に牧野さんにご発言いただけた内容は、実はそれまでのモヤモヤした思いを払しょくするかのようなすがすがしさを感じたのは私だけではないはずです。
そのような重い思いを抱きながら、3年もこの特別篇におつきあいいただけたことは、心より敬服する次第です。
牧野さんだけではなく、遠くは金沢から富山、東京から駆けつけていただいたシンポジストの皆様や参加者の皆様に、心より感謝申し上げます。
まだまだ先行きの見えないこの「3.11」の傷跡を記号化するのではなく、個別の思いを忘却に晒さない可能性を、引き続きてつがくカフェ@ふくしまは探究して参りたいと思います。
また、多くの皆様に出会い、語らえることを願っております。
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震災・原発事故に対する関心の高さがうかがえます。
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今回は第1部でシンポジウム、第2部で哲学カフェを行う二段構えで開催しました。
第1部では牧野英二さん(法政大学教授)のご著書『「持続可能性の哲学」への道――ポストコロニアル理性批判と生の地平――』(法政大学出版局)を手がかりに、それに対して哲カフェの世話人・小野原雅夫(福島大学教授)と、山本英輔さん(金沢大学教授)、齋藤元紀さん(高千穂大学教授)、石井秀樹さん(福島大学特任准教授)らが報告をする形式をとりました。
司会は相原博さん(法政大学兼任講師)です。
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それぞれのご報告は大変興味深いものでしたし、コメンテータ同士の応答が大変刺激に満ちたものでした。
残念ながら、これらの報告に関して会場とのやりとりに割く時間が足りませんでしたが、いずれ、この内容についてはシンポジストの一人でもあった小野原からまとめた報告文がアップされることでしょう。
ここでは第2部の哲学カフェの議論に限った報告にとどめることをお許しください。
今回の議論は、ホワイトボードが3枚にもわたる白熱した議論が執り行われました。
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テーマは「忘れる力は必要か?」
震災・原発事故から3年目を迎え、もはやこの出来事が風化に晒されそうになっている問題を提起させていただきながら議論に入らせていただきました。
まずは、「忘れる力の反対はなんだろうか?」という問いかけから、それは「覚えていること」や「記憶していること」と思いがちだけれども、むしろそのように意識的自覚的に覚えていることではなく、忘れていたある衝撃や体験を「思い出すこと」なのではないだろうか、という意見が挙げられます。
人間はいくら覚えていよう、記憶にとどめておこうとしても圧倒的多数は忘れていくものでしょう。
だから自覚的に覚えていようとすることが「忘れる」の反対語だと考えがちですが、その忘却の穴に落ち込んでいた記憶が立ち上がっていくことそのものが「忘れる力」の反対だというわけです。
これが自覚的に立ち上げる能動的なものなのか、ふとある香りを嗅いだ瞬間に記憶が呼び覚まされる受動的なものであるのかは興味深い点です。
別の参加者からは、まず「個人の記憶」と「共同体の記憶」のレベルがあることを分けた上で、「個々人には忘れることは必要だ」、けれども忘れられないものだけが記憶に残っていく一方で、「忘れてはいけない記憶」があるじゃないか、といいます。
これに関して別の参加者は、「責任能力」というものが「忘れてはいけない記憶」に関係するのではないかと言います。
犯罪行為が行われたことを忘れることは、また同じ過ちを繰り返させてしまうのではないか。
責任を問われることは忘れてはいけないというのはこのような意味でも理解できます。
また、その意見に対して別の参加者からは、「出来事」に近ければ近いほど忘れないのではないかとの意見が挙げられました。
この意見によれば、体験したものだからこそ、出来事の意味をよく知るのに「より適切な場所にいる」ことになります。
しかし、その反面で、その発言者は「朝鮮半島の植民地化」などの事実は、わりに忘れやすいものだと言います。
それはつまり、自分の体験から遠いものであるからだし、だからこそ「出来事」の当事者はそれに向き合う責任が生じるものだと言います。
出来事の内部にいる人間は、そのつらさや過酷さを生身で体験しているがゆえに、それを外部の人間に伝える責任があるのだ。
しかし、内部にいる人間がもっともよく知っているというのは本当なのでしょうか?
そもそも「内部」とは何か?
原発事故を「内部」で体験した人間とは誰のことなのか?
原発避難を余儀なくされた地域の人々なのか?
高線量汚染に晒されているにもかかわらず強制避難区域には指定されなかった地域なのか?
ホットスポットが見つかった関東地方の地域なのか?
こうした議論も含めて、しかし「忘れてはならないこと」が未解決のままに残されているのは現在でも変わらないわけですが、そうであるにもかかわらず「考えなくなっている」、「思考を止めてしまっている」、このことそれ自体が「忘れる」ということではないかという意見が出されます。
しかし、それは他方で過酷でつらい経験をいつまでも思い出していては生きること自体が困難になってしまうでしょう。
そうであるがゆえに、「忘れること」は「生きるために」必要なことだと言います。
したがって、個人には「忘れる権利」がある、しかしそれに対して共同体が存続するためには「忘れてはならない記憶」というものが必要だし、その責任はむしろ、先に挙げられた意見とは真逆に、もっとも忘れそうな立場にある「当事者以外の人々」にこそ求められるべきだという意見が出されました。
しかし、出来事の記憶を残すにしても、ただただ個々人の体験を語り続けるだけでは、けっきょく何も残らないのではないか。
それらの出来事を忘れないためには個々人の経験を超えた普遍的な意味をつかむ必要があるのではないかという意見が出されました。
つまり、「出来事の意味」という点において、何を語り残せるかが重要だということです。
人類が経験したことのないような原発事故(たしかに海洋汚染という意味では、チェルノブイリの経験も参照できない環境破壊をもたらした事故と言えるでしょう)は、様々なものを暴露させたのであり、そのことを次のステップに行くためには、忘れてはいけないも普遍的な意味があるというわけです。
その一方で、「忘れる」とは何かに関して、別の参加者は、自宅の周囲におかれた除染後にブルーシートをかけられた汚染土を見るにつけ、やっぱりあの出来事や放射能のことは忘れたいと思っている自分がいるといいます。
にもかかわらず、忘れようとすればするほど、忘れられない。
つまり、能動的に忘れることはできないことに気づかされたと言うのです。
記憶というものは忘れたくないと思っているものほど意外と忘れてしまったり、忘れたいと思っているものほど忘れられないという点で、人間のコントロールの範疇を超えたものなのかもしれません。
あるいは、別の参加者は、失恋の経験を挙げながら、それがつらい経験であることから素敵な思い出に変わることがあるのだから、その出来事そのものに対する「思考を切り替えること」によって、前向きに出来事と向き合えることができるだろうと言います。
したがって、記憶を残しつつも、それによってつらい経験が素敵な思い出に帰られるという点で、「忘れる」とは思考を切り替えることでもあるということになるとのことです。
すると、ある出来事を忘れさせようとする人々は、「別の思考」を持ち出しながら、その時どうとらえたかを別の解釈を導入しながら上書きを施した記憶をもたらします。
そして、その途上において記憶は上書きされながらあるものを捨象させられていくというわけです。
ここまでは、過酷災害に遭った個々人には忘れる権利があるとはいえ、共同体の記憶においては共同体そのものを持続させるための記憶が必要であり、そうした意味あるものとしての記憶は忘れるべきではないという議論が展開されてきました。
学校で地域社会で国家で。それは、いわば「教訓」として物語る形で残されていくということでしょうか。
しかし、果たして「意味がある」記憶だけが残されていくというのは本当でしょうか?
それについて、別の参加者は「痕跡として」記憶を残すあり方もあるのではないかと言います。
痕跡とは何か。
いわば、ラスコーの壁画のように当時からの文脈のある物語のようにではなく、岩壁に刻まれたまま、しかし何かが残されているような記憶の残骸のようなものです。
それについて、その発言者は物語が語られ得るような内部にではなく、記憶を「外側に刻む」や、「意味をはみ出す」という言い方をします。
「意味をはみ出す」とは秩序だった記憶の物語の意味からはみ出すということでしょうか。
あるいは、「忘れるべきではない記憶」といった「意味ある」記憶の部類からはみ出す記憶のことでしょうか。
いずれにせよ、人類の歴史のほとんどは忘却に晒されているわけですから、逆に残された記憶の数々が「意味あるもの」だとすれば、その意味をはぎ取られた、あるいは意味を与えるに値しない記憶を、いかにして残しうるか問題化した点で興味深いものです。
この意見に触発された別の参加者は、その「痕跡」を「万葉集」に見出します。
それによれば、「万葉集」こそ、故郷喪失や死をめぐるトラウマだらけの記憶の集合体であり、その点で柿本人麻呂は挽歌の天才だったと言います。
あるいは戦争遺構のように、意味をはぎ取られたような残骸のようなものこそ「痕跡」というべきものだとも言います。
また別の参加者はこれを受けて、鴨長明の「方丈記」を想い起したと言います。
この世のむなしさをうたったそれらの文学は、まさに誰も語る人がいなくなった共同体の記録を、意識のどこかに歌として根づいていたものを掘り起こすものとして、第1部で論じられた「情感豊かな理性」と結びつくのではないかと言います。
これらは、その点で「意味からはみ出す」ものを救い出すような文学作家だったと言えるでしょう。しかし、他方で、これらの言葉、物語が共同体に回収する危うさはやはり拭いきれません。
これら「意味をはみ出す記憶」たちが、いったん意味ある共同体の物語に組み込まれるやいなや、それらは共同体の存続に都合のよい記憶として利用される恐れがあるわけです。
そのことを古来日本人の心の表現として「万葉集」が、ナショナリズムと結びつく恐れもあるのではないかとの指摘がなされました。
「学び」や「意味」のある記憶は、実はそれ自体が忘却の危うさをはらんでいるのではないか。
そのことについて、文学に携わる別の参加者は、「意味づけることの方が忘却に加担するのではないか」と指摘します。
たとえば、震災・原発事故を「3.11」という一言で名づけることは、それ自体が記号化しており、さらに「9.11」という出来事と言葉のリズムとしても響きあう符牒めいた用いられ方は、言葉によって忘れないようにしながら、その実、私たちの個別的な経験や体験が切り取られているのか疑わしいと言います。
言い換えれば、個別単独である「私」の感覚と異なるものを「3.11」という言葉で記号化することで、ある種の神話化に加担させられているのではないだろうか、というわけです。
むしろ、その発言者にとっては「3.14」(福島第一原発3号機の水素爆発があった日)の方がよほど重要であったとのことです。
すると、「言葉」というのは、ある種の記憶装置でもあると同時に忘却装置でもある両義性を孕むことになります。
これまでの議論が「意味のある記憶」こそ忘れてはならないという展開であったのに対し、「意味を与えること」が逆に無意味とされる記憶を忘却させてしまうということになります。
この考え方に対しては、いくつか反論や疑問が付されています。
その一つは、言葉による意味の記号化は忘却を招くというけれど、けっきょく意味は言葉にしなければ意味がないのではないかという反論です。
というのも、「言葉」とはそもそも共同体の中で成立するものである以上、共同体において忘却を防ぐためには無理やりにでもしないと、けっきょくは「なんとなくの雰囲気」しか残らないのではないかというわけです。
また別の参加者からは、意味づけと記号化がごっちゃになっているのではないかという指摘がなされ、それは「記号化すべきではないという意見なのか、それとも記号化を認めつつ注意せよということを言いたいのか」との問いが投げかけられました。
それに対し、質問を受けた参加者は、言葉による記号化、例えば「東北」という言葉に一括りにされることで、福島や宮城、岩手、あるいは被災の個別性が失われてしまうことを懸念しつつ、むしろ「沈黙」や「語られないこと」に耳を傾けることの重要性を喚起したいと応答しました。
「3.11」という記号化された出来事でも、やはり地震・津波といった「自然」による被災は忘れられることもやむなしだけれども、人災である「原発事故」はそれとは種類が異なり、決して忘れてはいけない出来事であると言う意見も挙げられます。
これは冒頭で挙げられた「責任」と「忘れるべきではない記憶」という問題と関係するでしょう。
また、第一部の「持続可能な哲学」というキーワードと結びつけるならば、こうしてみんなで語り、考え続けることで意味がなくなるような危険を避ける努力が必要であり、その意味で「忘却」の反対は「文化を生み出すこと」であり、「記憶」とは「創造的」な営みであるとの意見も挙げられました。
「創造的」という点では、たとえば「原発観光地化計画」や福島原発跡地を「原発神社」にするなどメモリアル化の創造を通じて記憶を保持しようとする試みに注目してよいのではないかと提起します。
この「創造性」から「傷」というキーワードを導き出す意見も出されました。
「絆創膏」とは「傷」を防ぎ、新たな細胞を創り出して傷口を修復するまで覆う役目があります。
この震災・原発事故によって「人為の裂け目[傷]から見えた自然」、すなわち「人間がコントロールできないもの」が出来してしまったことを踏まえ、この傷口を塞ぐものが、ある種の宗教的なものではないかというわけです。
さらに、その発言者はこの傷を「スティグマ」、つまり聖なるダークな痕跡と名指します。
それは、いまでは普段気づかない傷だけれど、まったく癒えていない。
癒えていない以上、これを塞ぐためにはどうすべきなのか?
震災前にはうまく回っていたように見えた大きな袋の傷口に絆創膏を貼って、昔の形にするか、新しい形にするかが問われているのが今だというわけです。
すると、別の参加者から1,2年目は放射能まみれで早くこの現実をみんな忘れてくれたらいいなぁと思っていたという意見が出されました。
そして、時間の経過とともに周囲の人々が忘れ居ることにしめしめと思っていたとも言います。
商売する人たちにとっても、早く忘れてほしいなと思っていたのではないか。
そんな風に思っていたのだけれども、実際には忘れても問題は継続している以上、最も被害を被る人たちというのは、忘れたことによって汚染された食品を食べてしまったりする人々なのではないだろうかと言います。
このような議論が展開される中、そもそも「忘れる力」という言葉にはやはり違和感を抱くとの意見も挙げられます。
あるいは、「忘れる力」なんて福島に生きる人間に必要ではないと思っていたけれど、この「3.11」を血肉で体験してしまったことから、その考え方が転換してしまっとの意見が出されました。
ふと、そのことが顕在化するとつらくなる時もあるけれど、実は県外に避難したものの苦悩の方が辛いのではないか。
というのも、福島から避難した人たちは、いま、福島がどうなったかも割らないだけでなく、放射能汚染リアリティが消えてしまっているという話を聞くと言います。
だからこそ、ここにいる我々は真正面からこの問題に向き合うべきではないだろうか。
原発事故によってパンドラの函が開き、地獄の蓋が開いてしまったことを私たちは「見てしまった」。
「見てしまった」以上、我々はそれを外に伝える責任がある。
それが「フクシマ」人として生きることを引き受けるということであり、自分と戦いながら伝えていくということではないか、という重い決意が表明されました。
その一方、当事者にも部外者にもなりえない位置にいたという参加者からは、罪悪感を抱く思いが語られながら、言論人・文化人が「〈フクシマ〉に向き合う」や「当事者に寄り添う」とまとめてしまったが故の危うさが感じられるとのはなしが出されました。
言い換えれば、「「フクシマ」を忘れない」ことを利用する人々がいるのであり、それはこの後にさらに大きな出来事があったとき、実はこの出来事がぶっ飛んでしまうのではないか、と言います。
この話を聞きながら、私は以前、研究者である友人から「福島が学問の植民地化にされている」という話を聞いたことを思い出しました。
「フクシマ」が消費されていると言ってもいいでしょう。
震災直後、ある集会で研究者に対して市民が、福島を研究のために消費していることを糾弾した場面があったことも思い出しました。
このことを話題にしたところ、第1部でご報告いただいた牧野さんから、まさにご自分が「3.11」を題材に今回シンポジウムで取り上げられた本づくりに取り組んだことは、「フクシマ」を「商品化した」ことに他ならないことが告げられました。
当事者でもなく、外部から来た人間がこうして被災地を商品化することの苦しさを吐露されながら、しかしそうであるにもかかわらず、少なくともそのことを自覚しながら当事者とともにこの問題を伝え、語り合うことをせずにはいられないことが告げられました。
これに近い思い方は、以前にも東京から参加される別の参加者から伺ったことがあります。
その告白とも言うべき発言に対し、福島に居住する参加者からは現地の人間の本当の想いを知りたいならば、やはり福島に住むべきである、
年に一度来ただけでは被災地の思いなどわかるはずもないのだから、この地に移り住むことを進める発言も出されました。
福島の内と外。
震災・原発事故の経験の有無。
避難した人間とこの地に止まった人間。
こうした区分によって、しかしそれぞれに複雑な罪悪感や苦悩があることは、すでに避難者の思いに触れた発言にも見られました。
果たしてこうした内/外の区別は妥当なのでしょうか?
真にこの出来事の核心にいた人間とは誰のことなのでしょう?
体験した人だけが、真にその出来事の意味を知るものなのでしょうか?
その内部で体験したものだけが出来事を忘れえないのでしょうか?
その人々だけが忘れてもよい権利を持つのでしょうか?
「忘れる力」を問うには、この問題圏を避けては通れないようです。
しかし、最後に牧野さんにご発言いただけた内容は、実はそれまでのモヤモヤした思いを払しょくするかのようなすがすがしさを感じたのは私だけではないはずです。
そのような重い思いを抱きながら、3年もこの特別篇におつきあいいただけたことは、心より敬服する次第です。
牧野さんだけではなく、遠くは金沢から富山、東京から駆けつけていただいたシンポジストの皆様や参加者の皆様に、心より感謝申し上げます。
まだまだ先行きの見えないこの「3.11」の傷跡を記号化するのではなく、個別の思いを忘却に晒さない可能性を、引き続きてつがくカフェ@ふくしまは探究して参りたいと思います。
また、多くの皆様に出会い、語らえることを願っております。
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