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フォーラム福島の阿部さんと、秋のシネマdeてつがくカフェの打ち合わせをしました。
きっかけは、サブカルチャーに造詣の深いゆうたまんこと、Hさんがフォーラムと哲カフェに持ち込んだ「DANCHI NO YUME」という映画です。
これはヒップホップミュージシャンのAnarchyの成り上がりを描いたドキュメンタリーです。
京都の団地文化から育った本邦初の本格派ヒップホッパーAnarchy。
が、正直、世話人一同ヒップホップ文化に全くなじみがなく、試写用のdvdを見ても異世界の物語です。
その破天荒な人生とサクセスストーリーには関心が持てるものの、これで一体何を哲学的に語れというのか…
というか、根本からその生き方に哲学的な疑問を投げかけたことで、もし熱狂的なAnarchyファンを怒らせてしまったらどうしよう…
一瞬、映画「デトロイトメタルシティ」のクラウザー2世ファンに罵倒されるMCの姿を想い起こしました。
第一、ヒップホップの意義がいま一つよくわかりません…
もっともゆうたまんによれば、そんなヒップホップを知らない人たちがこの映画を見たらどんな反応をするのか、それを哲カフェで検証してほしいとのこと。
ううう、荷が重すぎる…
そんな不安をいだきながら阿部さんと世話人二人で打ち合わせをしたところ、さすが三人寄れば文殊の知恵。
なかなか面白そうな哲学的テーマのアイディアがいくつか提起されました。
まずは、ヒップホップはメジャーデビューしちゃっていいのか?という問いです。
反社会的な内容を歌い上げるヒップホップが、まさにメジャーデビューしちゃったら、それは大衆迎合であり、ヒップホップのアイデンティティそのものの否定になるのではないか、というもの。
そもそも、ヒップホップの歌/詩は一回性のものであり、そこにすべてあるのに、複製/反復可能なCD化してしまってよいのか。
さらに、ヒップホップが地元愛や周辺/反社会性を歌いながら、それがだれにでも共感を持てる音楽に昇華しうるのか、という問いです。
流浪の民族音楽だったタンゴをピアソラが芸術性を高めた音楽に昇華させたように、ヒップホップを普遍音楽へ展開させることは可能なのか、すべきことなのか、という問題です。
むしろ、そんなことを目指すのヒップホップの自己否定であり、むしろそれを理解しうるもののあいだだけで共有されるだけで十分なのだ、ということになるのだとすれば、それは内閉的なカルチャーではないかという問いです。
ともかく、いまのところ11月13日(木)上映時間20:30~22:00、哲学カフェ22:00~23:00という、なんとも一般の方々が参加しにくい時間帯の開催を予定しています。
その意味で哲カフェの番外編とも言えるでしょう。
ヒップホップに興味のある方もない方も、ぜひぜひお越しいただければ幸いです
(時間帯的に未成年の方の参加はお断りせざるを得ませんが。)
それだけではありません。
秋のフォーラム福島の上映作品は、とても好奇心をそそるラインナップとなっております。
女優サラ・ポーリーが自らの出生と亡き母の人生を探る「物語る私たち」
フランスアルプス山脈に立つ伝説的な修道院に、初めて撮影を許可された「大いなる沈黙へ」
あの、革命家・重信房子の娘重信メイのドキュメンタリーを撮った「革命の子供たち」
世界記憶遺産に登録された炭鉱絵師・山本作兵衛のドキュメンタリ「坑道の記憶」
ポルポトの大虐殺を人形によって描いた「消えた画―クメール・ルージュの真実」
ピノチェト独裁政権の信任を問う国民投票に果敢に挑んだ若き広告マンを描いた「NO」
教師たちの葛藤と教育現場の豊かさを描いた「ローマの教室で」
等など、
この秋、フォーラム福島が見逃せません。
さて、この作品の中から今秋のシネマdeてつがくカフェで扱う上映作品はあるのでしょうか?
皆様のご希望を募りたいところです。こうご期待。
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