第4回本deてつがくカフェが昨日、13名の参加者たちによりサイトウ洋食店で開催されました。
課題図書は『星の王子さま』。
子どもの頃、誰もが一度は読んだことが…
と思いきや、ワタクシも含めてこれを機にはじめて読んだという参加者も数名いらっしゃるかと思えば、「大好きな本」や「この本で人生が形づくられた」と言い切る方など、この本に対する思いも様々なカフェとなりました。
さらに驚いたことには、この本の翻訳の数です。
参加者が持ち寄った翻訳書は多彩でした。
なかでも一番の衝撃はコレです。
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そう、アノ、西原理恵子が挿絵を描いた『星の王子さま』(角川つばさ文庫)なのです!
うーん、衝撃だ!これじゃ、ただの田舎の腕白坊主じゃないか!
「裸の大将」の子どもの頃はこんなかんじだったのではないでしょうか。
ちょっとおっとりしている感じが王子様っぽい感じもしますが。
もちろん内容は原書に則った『星の王子さま』そのものですが、
訳者の菅啓次郎の翻訳もなかなかです。
これだけで王子さまのイメージがガラガラ崩されたものです。
こんな感じで各々の『星の王子さま』像がぶつかり合う楽しい会となりました。
読後の感想、疑問もそれぞれです。
「共感できない部分があるのは、私がおとなになったからか」
「今回読んでみて新たな発見があった」
「おとなってそんなにつまらなくないぞ。おとなって何?」
「子ども向けの絵本ではないだろう。子どもとおとなの両方の立場を理解してこそ、おもしろさがわかる」
「おとなになって見えなくなったものとは」
「自分に当てはまるものもある」
「冒頭にあるレオン・ウェルトに、サン=テグジュペリはどんな気持ちで捧げたのであろう」
「理由なく泣いた箇所がある」
「なぜ、王子は死ななければならなかったのか」
個人的にはこの本をすんなり読み進めることは難しかったです。
いつもどこかで躓くのです。
このつまずき、というか引っかかりは翻訳の難しさにもよるものでもあります。
議論ではまず、「飼いならす」という言葉の違和感について話題に上がりました。
この言葉は後半部に登場するキツネが、王子様と友達になりたいという思いを語るなかで述べられた言葉です。
「きみにとっておれは10万匹のよく似たキツネのうちの1匹でしかない。でも、きみがおれを飼い慣らしたら、おれと君は互いになくてはならない仲になる。君は俺にとって世界でたった一人の人になるんだ。おれも君にとってたった1匹の…」
このキツネの言葉に引っかかりを覚えるのは、ふつう、かけがえのない関係になる上で「飼い慣らす」という言葉を用いるだろうか、という点です。
別の翻訳書では、この部分は「暇つぶし」となっているとの意見も出ます。
「でも「暇つぶし」もどうだろう?」
「いや、手間ひまをかけるということではないか」
「自分の持っている時間を自分の意志で費やすという意味では、単なる暇つぶしとは異なるだろう」
他にも「なつかせる」や「なじみになる」という翻訳書もあるとのことです。
原典のフランス語ではどう書かれているか確認できませんでしたが、
いずれにせよ、この言葉には情愛の結びつきや親密さをつくる意味が込められているようです。
そうはいっても「飼い慣らす」や「なつかせる」というのは、どうもしっくりきません。
自分で自分を「オレを飼い慣らしてくれ!」とか「ワタシをあなたになつかせてちょうだい!」というのは、ふつう言わないものでしょう。
ある参加者に言わせれば、これはあくまで人間と動物の関係においてだから、その表現は成り立つともいいます。
たしかに、人間同士の関係と考えるから違和感を持つのであって、動物の擬人化だと考えれば理解できます。
いずれにせよ、見ず知らずのもの同士を親しませるためには、一定程度、強制的に互いを結びつけるようなことでしか生まれないということでしょうか。
話題は「大切なものは目に見えない」という言葉へ向かいます。
冒頭にヒツジを書いてと王子にせがまれる飛行士が、やぶれかぶれに描いた「箱」の中にヒツジを見出す王子様の目には何が見えるのか?
逆に、なぜ大人になると見えなくなるのか?
いつから大人の心になってしまうのか?
そのような問いに対し、分類することを覚える過程で見えなくなっていくのではないかという意見が出されます。
いや、そもそもそれは見えているのだけれど、それが見えていることを許さない社会になっているのではないかという意見も挙げられます。
たしかにいくら自分に見えたものの存在を主張しても、誰にも相手にされないとき、人は口をつぐみ自分だけの秘密にしてしまうものでしょう。
その意味で言うと、大多数の人々は社会に飼い慣らされているといえるのではないか、それが生きにくい社会の実相なのではないかという意見も挙げられました。
それにしても、人はなぜ世界の多様なものを分類するのか。
それは数字(値)化することと言い換えてもよいですが、王子様に言わせればそれが「大人は数字で表すことが好きだ」ということの証です。
人間はこの世界について説明なしには不安になってしまうものです。神話はその役割を果たしてきました。
それが大人においては神話の物語ではなく、「数字」に成り代わってしまったということでしょうか。
ところで、数字とは比較分類の道具ともいえます。
すると、これに興味のない子どもとは、まさに手にするもの、目にするものはすべて「このもの」としてしかたち現れないのではないでしょうか。
そして、「このもの」として立ち現れてくるものの分だけ「世界」が広がっていくのではないでしょうか。
小学生時代、同級生の数など意識したことはありませんが、なじみの友達が増える分だけ自分の生きる領域が広がった感じがしたものですが、いかがでしょう?
これは単なる友達の数を問題にしているわけではありません。
「このもの」と思える馴染み深いもの分だけ世界に奥行きができていくというか。
なぜか知りませんが、子どもはコキタナイ玩具を大切にします。
手垢で真っ黒になったものほど手放したがりません。
なぜなら、それは自己の一部でもあるからです。そしてその自己とは世界と分けることのできないものだからです。
そもそもこの物語に出てくる「王様」や「地理学者」などは大人の駄目な代表として登場します。
しかし、そういう人物を描けるのは実は、サン=テグジュペリ自身が実社会で経験したことが糧となっているのだろうという解釈も出されました。
その気忙しくもいきにくい実人生の中で、彼が見出したのが愛する「花」の「はかなさ」ということでした。
王子様はこの愛する「花」と、しかし冷たく虚栄心に満ちた「花」であるがゆえに別れを告げて星から出てくるわけですが、これはサン=テグジュペリの実の妻のことではないかとの憶測も出されました。
それはともかく、「はかなさ」であるがゆえの「かけがえのなさ」というのはこの本の最大のテーマではないでしょうか。
しかし、これに対してはむしろ、「はかなさ」から生じる悲しさは、「はかなさ」にこだわるがゆえに生じるのであって、この本ではむしろその「はかなさ」を捨てることを求めているのだという解釈が示されました。
だからこそ、最後の場面で、王子様が星々にはそれぞれ美しいものが隠されているといい、そこに永遠性を見出そうとすることとつながるというわけです。
そこの部分の解釈はたいへん興味深いことなので、諸欄のご意見を待ちたいところです。
驚いたのは、この「はかなさ」、「かけがえのなさ」、「特別な存在」というキーワードから、実はそのような親密とも言うべき間柄には、排他性を含む暴力性を含むのだという話題に展開したことです。
そこからアルジェリアでの反政府武装組織の結束やファシズムの話題にまで展開しました。
まさか『星の王子様』からそんな論点に至るとは思いもよりませんでしたが、そこには日本社会で生きる我々の文化的まなざしによるものではないかと理解しました。
たしかに、親密な関係は他者の介入を許しません。他者がそのものと自分とのあいだに介入すれば嫉妬が生まれるからです。
親密圏で暴力を生み出すということはDVなどがいい例ですが、こうした文脈で「かけがえのなさ」を読み込もうとする背景には「世間」や「共同体」のしがらみ、「空気を読む」といった日本独特の社会文化があるからではないでしょうか。
だからこそ、「もっと自律した個人同士でで成り立つ市民社会を!」ということになるのかもしれません。
が、こと『星の王子様』に即して言えば、フランス社会はむしろ市民化が徹底されていく中で個人主義化が根付き、引いては孤立化が進む中で、むしろかけがえのない存在を求めずにはいられなかった作品なのかもしれません。
戦間期ということも考え合わせればなおさらです。
それがいかに扱いにくい存在であろうとも、お互いがなじむ中で代替不可能な存在となっていくものとして。
思いがけない方向へ展開したところでタイムアップとなり、消化不良感も否めませんでしたが、議論を経た後にはやはりもう一度読みたくなってしまうような本であることに気づかされます。
自分の大好きなこの本をてつがくカフェのような場で、他の人に汚されたくないという複雑な思いで参加された方もいらっしゃるようです。
いずれにせよ、共通のテキストを用いるやり方はそれほど脱線せずに進むものです。
また次回に本を選定する楽しみができました。
積雪の中お出でいただけた参加者の皆さんには感謝申し上げます。
次回は2月16日にアオウゼにて通常のてつがくカフェが開催されます。
多くの方々にご参加いただければ幸いです。
課題図書は『星の王子さま』。
子どもの頃、誰もが一度は読んだことが…
と思いきや、ワタクシも含めてこれを機にはじめて読んだという参加者も数名いらっしゃるかと思えば、「大好きな本」や「この本で人生が形づくられた」と言い切る方など、この本に対する思いも様々なカフェとなりました。
さらに驚いたことには、この本の翻訳の数です。
参加者が持ち寄った翻訳書は多彩でした。
なかでも一番の衝撃はコレです。
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そう、アノ、西原理恵子が挿絵を描いた『星の王子さま』(角川つばさ文庫)なのです!
うーん、衝撃だ!これじゃ、ただの田舎の腕白坊主じゃないか!
「裸の大将」の子どもの頃はこんなかんじだったのではないでしょうか。
ちょっとおっとりしている感じが王子様っぽい感じもしますが。
もちろん内容は原書に則った『星の王子さま』そのものですが、
訳者の菅啓次郎の翻訳もなかなかです。
これだけで王子さまのイメージがガラガラ崩されたものです。
こんな感じで各々の『星の王子さま』像がぶつかり合う楽しい会となりました。
読後の感想、疑問もそれぞれです。
「共感できない部分があるのは、私がおとなになったからか」
「今回読んでみて新たな発見があった」
「おとなってそんなにつまらなくないぞ。おとなって何?」
「子ども向けの絵本ではないだろう。子どもとおとなの両方の立場を理解してこそ、おもしろさがわかる」
「おとなになって見えなくなったものとは」
「自分に当てはまるものもある」
「冒頭にあるレオン・ウェルトに、サン=テグジュペリはどんな気持ちで捧げたのであろう」
「理由なく泣いた箇所がある」
「なぜ、王子は死ななければならなかったのか」
個人的にはこの本をすんなり読み進めることは難しかったです。
いつもどこかで躓くのです。
このつまずき、というか引っかかりは翻訳の難しさにもよるものでもあります。
議論ではまず、「飼いならす」という言葉の違和感について話題に上がりました。
この言葉は後半部に登場するキツネが、王子様と友達になりたいという思いを語るなかで述べられた言葉です。
「きみにとっておれは10万匹のよく似たキツネのうちの1匹でしかない。でも、きみがおれを飼い慣らしたら、おれと君は互いになくてはならない仲になる。君は俺にとって世界でたった一人の人になるんだ。おれも君にとってたった1匹の…」
このキツネの言葉に引っかかりを覚えるのは、ふつう、かけがえのない関係になる上で「飼い慣らす」という言葉を用いるだろうか、という点です。
別の翻訳書では、この部分は「暇つぶし」となっているとの意見も出ます。
「でも「暇つぶし」もどうだろう?」
「いや、手間ひまをかけるということではないか」
「自分の持っている時間を自分の意志で費やすという意味では、単なる暇つぶしとは異なるだろう」
他にも「なつかせる」や「なじみになる」という翻訳書もあるとのことです。
原典のフランス語ではどう書かれているか確認できませんでしたが、
いずれにせよ、この言葉には情愛の結びつきや親密さをつくる意味が込められているようです。
そうはいっても「飼い慣らす」や「なつかせる」というのは、どうもしっくりきません。
自分で自分を「オレを飼い慣らしてくれ!」とか「ワタシをあなたになつかせてちょうだい!」というのは、ふつう言わないものでしょう。
ある参加者に言わせれば、これはあくまで人間と動物の関係においてだから、その表現は成り立つともいいます。
たしかに、人間同士の関係と考えるから違和感を持つのであって、動物の擬人化だと考えれば理解できます。
いずれにせよ、見ず知らずのもの同士を親しませるためには、一定程度、強制的に互いを結びつけるようなことでしか生まれないということでしょうか。
話題は「大切なものは目に見えない」という言葉へ向かいます。
冒頭にヒツジを書いてと王子にせがまれる飛行士が、やぶれかぶれに描いた「箱」の中にヒツジを見出す王子様の目には何が見えるのか?
逆に、なぜ大人になると見えなくなるのか?
いつから大人の心になってしまうのか?
そのような問いに対し、分類することを覚える過程で見えなくなっていくのではないかという意見が出されます。
いや、そもそもそれは見えているのだけれど、それが見えていることを許さない社会になっているのではないかという意見も挙げられます。
たしかにいくら自分に見えたものの存在を主張しても、誰にも相手にされないとき、人は口をつぐみ自分だけの秘密にしてしまうものでしょう。
その意味で言うと、大多数の人々は社会に飼い慣らされているといえるのではないか、それが生きにくい社会の実相なのではないかという意見も挙げられました。
それにしても、人はなぜ世界の多様なものを分類するのか。
それは数字(値)化することと言い換えてもよいですが、王子様に言わせればそれが「大人は数字で表すことが好きだ」ということの証です。
人間はこの世界について説明なしには不安になってしまうものです。神話はその役割を果たしてきました。
それが大人においては神話の物語ではなく、「数字」に成り代わってしまったということでしょうか。
ところで、数字とは比較分類の道具ともいえます。
すると、これに興味のない子どもとは、まさに手にするもの、目にするものはすべて「このもの」としてしかたち現れないのではないでしょうか。
そして、「このもの」として立ち現れてくるものの分だけ「世界」が広がっていくのではないでしょうか。
小学生時代、同級生の数など意識したことはありませんが、なじみの友達が増える分だけ自分の生きる領域が広がった感じがしたものですが、いかがでしょう?
これは単なる友達の数を問題にしているわけではありません。
「このもの」と思える馴染み深いもの分だけ世界に奥行きができていくというか。
なぜか知りませんが、子どもはコキタナイ玩具を大切にします。
手垢で真っ黒になったものほど手放したがりません。
なぜなら、それは自己の一部でもあるからです。そしてその自己とは世界と分けることのできないものだからです。
そもそもこの物語に出てくる「王様」や「地理学者」などは大人の駄目な代表として登場します。
しかし、そういう人物を描けるのは実は、サン=テグジュペリ自身が実社会で経験したことが糧となっているのだろうという解釈も出されました。
その気忙しくもいきにくい実人生の中で、彼が見出したのが愛する「花」の「はかなさ」ということでした。
王子様はこの愛する「花」と、しかし冷たく虚栄心に満ちた「花」であるがゆえに別れを告げて星から出てくるわけですが、これはサン=テグジュペリの実の妻のことではないかとの憶測も出されました。
それはともかく、「はかなさ」であるがゆえの「かけがえのなさ」というのはこの本の最大のテーマではないでしょうか。
しかし、これに対してはむしろ、「はかなさ」から生じる悲しさは、「はかなさ」にこだわるがゆえに生じるのであって、この本ではむしろその「はかなさ」を捨てることを求めているのだという解釈が示されました。
だからこそ、最後の場面で、王子様が星々にはそれぞれ美しいものが隠されているといい、そこに永遠性を見出そうとすることとつながるというわけです。
そこの部分の解釈はたいへん興味深いことなので、諸欄のご意見を待ちたいところです。
驚いたのは、この「はかなさ」、「かけがえのなさ」、「特別な存在」というキーワードから、実はそのような親密とも言うべき間柄には、排他性を含む暴力性を含むのだという話題に展開したことです。
そこからアルジェリアでの反政府武装組織の結束やファシズムの話題にまで展開しました。
まさか『星の王子様』からそんな論点に至るとは思いもよりませんでしたが、そこには日本社会で生きる我々の文化的まなざしによるものではないかと理解しました。
たしかに、親密な関係は他者の介入を許しません。他者がそのものと自分とのあいだに介入すれば嫉妬が生まれるからです。
親密圏で暴力を生み出すということはDVなどがいい例ですが、こうした文脈で「かけがえのなさ」を読み込もうとする背景には「世間」や「共同体」のしがらみ、「空気を読む」といった日本独特の社会文化があるからではないでしょうか。
だからこそ、「もっと自律した個人同士でで成り立つ市民社会を!」ということになるのかもしれません。
が、こと『星の王子様』に即して言えば、フランス社会はむしろ市民化が徹底されていく中で個人主義化が根付き、引いては孤立化が進む中で、むしろかけがえのない存在を求めずにはいられなかった作品なのかもしれません。
戦間期ということも考え合わせればなおさらです。
それがいかに扱いにくい存在であろうとも、お互いがなじむ中で代替不可能な存在となっていくものとして。
思いがけない方向へ展開したところでタイムアップとなり、消化不良感も否めませんでしたが、議論を経た後にはやはりもう一度読みたくなってしまうような本であることに気づかされます。
自分の大好きなこの本をてつがくカフェのような場で、他の人に汚されたくないという複雑な思いで参加された方もいらっしゃるようです。
いずれにせよ、共通のテキストを用いるやり方はそれほど脱線せずに進むものです。
また次回に本を選定する楽しみができました。
積雪の中お出でいただけた参加者の皆さんには感謝申し上げます。
次回は2月16日にアオウゼにて通常のてつがくカフェが開催されます。
多くの方々にご参加いただければ幸いです。
しかし、これに対してはむしろ、『はかなさ』から生じる悲しさは、『はかなさ』にこだわるがゆえに生じるのであって、この本ではむしろその『はかなさ』を捨てることを求めているのだという解釈が示されました。
だからこそ、最後の場面で、王子様が星々にはそれぞれ美しいものが隠されているといい、そこに永遠性を見出そうとすることとつながるというわけです。
そこの部分の解釈はたいへん興味深いことなので、諸欄のご意見を待ちたいところです」
このような解釈をしたのが、かくいう私でしたので、渡部さんのご要望にお答えします。ただ上記解釈に修正する部分(ゴメンナサイ!)がございましたので、それを指摘した上で、私が『星の王子さま(以下、本書と略します)』で考えたことを申し上げたいと思います。
本書の翻訳版に出てくる「はかなさ」とは、つまるところ「捨てられる」べきものではなく、むしろ「かけがえのない」ものを探し求め歩くときには絶えずつきまとうものであるということです。なぜか。即ち、この地上に存在するものにつき、永遠なるものはひとつとしてないからです。形ある物はいつか壊れ、生きとし生ける者はやがて死ぬ。ではどうしてこの世に永遠性が無いにもかかわらず、人は「かけがえのない」ものを探し求めたがるのか。そのヒントが本書の18章に登場する「砂漠の花」が王子さまに言った次の言葉に顕在化していると思うのです。
「人間たち?いると思うわ。6、7人。もう何年も前に見たわ。でもどこにいるのかは、さっぱり。風があちこち連れて行くのよ。根がないんだもの。ずいぶん不便でしょうね(河野万里子・訳、新潮文庫より抜粋)」
この文章を最初に読んだとき、何と真理をついた巧い表現かと頷いてました。しかし何度か読み返すうちに、この花がかえって哀れというか、痩せ我慢で言ってるようにしか聞こえなくなってしまったのです。確かに、人はあちこちに「はかなく」も「かけがえのない」ものを恰も風にふらふら揺られるかの如く浮遊する生き物なのかもしれません。けれども、そうした挙句に「かけがえのない」ものと遂に遭遇した瞬間は、これまで浮遊してきた時間を相殺するほど大変貴重であり、何より第三者の目には見えないものなのではないでしょうか。本書21章できつねが王子さまに「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間」と断じたあの言葉は、おそらく何年も人間に会っていない「砂漠の花」には到底理解できないでしょう。そう読めば読むほど、あの虚栄心に満ち溢れた王子さまのバラはつくづく幸せだったと思わざるを得ません。
尤も、本書で私が重視したい箇所はそこではありません。即ち本書15章おいて、王子さまにとって「かけがえのない」バラを地理学者が「はかない」とにべもなく言い切り、沈痛な面持ちの王子さまの直後の表情がとても印象的だったのです。
「<ぼくの花は、はかないんだ>王子さまはそう思った。<世界から身を守るのにも、4つのトゲしか持っていない!それなのにぼくは、たったひとりで星に残してきた!>
このときはじめて、王子さまの胸に、痛いような思いがわきあがってきた。けれど、すぐに気持ちを切りかえた」
私は「はかなさ」の捉え方を、日本人特有のぼんやりとしていて不安定でどうすることもできない虚無感としか
理解することができませんでした。それ故、てつカフェの折もあまり「かけがえのない」ものばかりに「こだわり」過ぎてしまうと、余計に全体が見えなくなってしまい結果として無意識に物事を排他的に見てしまう恐れがあるのではないかと考え、過度な親密性はかえって危険であると発言したわけです。その過程で、「こだわり」は捨てよと主張したかと記憶しています(違ってたらゴメンナサイ)。
しかし、少なくとも私がそう思う限り、王子さまはこう言うでしょう。「大切なものは(君の)目にはみえない」と。そうです。王子さまが捉えた「はかなさ」とは、私が理解したネガティヴな側面だけではなく、「はかない」からこそ王子さまは「自分が、(ぼくの)バラを守ってやらねば」という責任感(後できつねによって王子さま自身も気づかされますが)がこの時芽生えていたのです。ここを私は読み落としていました。おそらく、王子さまは読者ほど「はかなさ」をさほど後ろ向きには考えていなかったのでしょう。そしてどう表現したらいいか、王子さまは「はかなさ」からバラそのものに対する「愛」、「思いやり」、「献身」を自ずと実感したのではないでしょうか。だからこそ、やがて王子さまは、<ぼくの>バラが放つ輝きが幾多の星の輝きと比例するのを悟ってか、或は永遠性ではない<ぼくの>花の運命を誰の所有でもない永遠性である星と同化するのを願ってか、「何百万もある星のうち、たったひとつに咲いている花を愛していたら、その人は星空を見つめるだけで幸せになれる」と呟いたのではないでしょうか。
いずれにせよ、自分の星で高慢なバラに手を焼いていた王子さまが、本書15章を境にちょっぴり逞しく感じられるのは確かです。こうるさいのは変わらないけれど…。
最後まで読んでいただき、有難うございました。