てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

第7回カフェ・参加者感想

2011年12月26日 03時54分13秒 | 参加者感想
去る12月23日に第7回のカフェが開催されました。
久しぶりのA・O・Z (アオウゼ) での開催です。
会に先立って世話人たちは毎日小学生新聞の記者の方に取材を受けました。



1月5日の新聞に記事が載るそうです。
今回のテーマは 「〈対話〉 と 〈和〉 の精神」 でした。



震災がらみで話し合った第6回のときに出されてきた論題ですが、
震災とは独立して話し合うこともできるようなテーマです。
前回を超える29名もの皆さんに参加していただくことができました。
もう写メでは全体像を捉えきれないくらいの盛会です。





皆さん、本当にありがとうございました。
今回もさまざまな論点が出され、立場の対立もあったりして、
けっこう問題を掘り下げていくことができたように思います。



話し合いの内容は近々ご報告させていただくことにして、
まずは参加者の皆さんの感想だけシェアさせていただきます。


●はじめは、〈対話〉、〈和〉がどういうものなのか自分自身はっきりと定義することができていませんでした。みなさんの意見を聞いて、身のまわりにたくさん対話があったことに気づきました。

●自分なりの「対話」や「和」の定義が明確になってきたので良かったです。

●「対話」「会話」「議論」についていろいろな考え方があるのだと思いました。

●「対話」の定義が自分の中で曖昧だったので、それについてよく考えられたのがよかった。自分が考えていないジャンルについて多くの人の意見がきけるのはとてもいいことだと思う。

●発言はしませんでしたが、皆さんの話を聞いているだけでも、面白い発言・意見にとてもよい刺激を受けました。

●初めての参加でしたが、すごくモヤモヤしました! 哲学的な思考ができたような気がします。特に存在についての対話はおもしろかったです。

●テーマの意味があまり分からなかったが、最後までよく分からなかった。ただ、みなさんの考えを聞いて、自分の中でモヤモヤしたものができた。

●対話について、目的がクリアであることなど、自分の中でモヤモヤとしていた「対話」や「和」について、無関係だと思っていたが、自分の中でも結びついていった。対話について考えると、まだまだ深くなるとも感じた。

●色々な方の考えを知ることができてよかったです。場から自然に「対話」がはじまる感じがとても新鮮でした。この場づくりはみならいたいです。楽しかったです(^0^)

●2時間では時間足りませんでしたね。

●原発問題や会社の会議とか意見が合わない会議は多々あり、どうしても受け入れられない場面は必ずあります。そして人間関係は多少悪くなるけれども、言葉をかわすことで必ず人間関係は回復します。なので、対話をする時は、相手を尊重する気持ちや対話の時のマナーを常にたずさえて議論をすすめることが大切だと感じます。本当に対話は大切ですネ。今回本当に若い方々とまざって勉強になりました。

●てつがくカフェに参加するのは3回目ですが、毎回、色々な意見があるな、と思います。参加して、一度も意見を述べたことがなく申し訳ないのですが、色々な意見があると思えるので無意味ではないと思っています。対話は、主題があってそれについてやりとりがあれば良いと思っています。また、絶対はないと思っていないとやりとりは難しいのではないかとも思っています。

●今回は人数がかなり多かったです。まさおさまの誕生日効果でしょうか? 自分も比較的少数派となることが多いのです。今回はいろいろな考えを完全に聞く気で臨み、そのようになりました。人数が多かったと思ったことがその原因かもしれません。

●対話は、おしゃべりとも議論ともちがうと考えていたので、対話の定義がひとそれぞれだったのが新鮮でした。それと同時に”分かっているつもり”という危うさはどの場でもあるということを実感しました。

●音楽の話が途中であって、とても興味深かったです。対話というと「話」という部分にとらわれていて、他の分野からの着想がなかったので新鮮でした。


感想用紙が足りなくなるくらい多くの方々に参加していただき、本当にありがとうございました。
世話人の側が今回のテーマに込めた意味をきちんと説明することなく会を始めてしまったので、
ちょっと皆さんの思考を混乱させてしまったかもしれませんが、
それはそれで、様々な立場からの意見を話していただくことができてよかったのかなと、
反省半分、満足半分で受け止めております。
皆さん、熱心な対話を本当にありがとうございました。
次回は1月21日 (土) に開催予定です。
さらに2月18日 (土) には福島初の 「書評カフェ」 も開く予定です。
またのお越しを心よりお待ち申しあげます。


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6 コメント

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あれ、今回はどうしたのでしょう (T)
2011-12-26 09:24:54
私がこの文を載せるころには、すでにサマリーが出来上がっていると思ったのですが、まだ無いようでしたのでここにコメントしてみます。
今回の哲学カフェでの発言はしないと決めていて、その通りに実行いたしました。と感想で書いたものです。

まずテーマについては、これまで Aは成り立つか、BはCより濃いのか、Dって何だろう といった疑問形であったのに対し、今回は EとF という対比(同格?)の形態でした。私的にはこの時点で、疑問形でなかったので答えようとする回路が発動しなかった感じでした。しかし、今回のテーマは日常の身近な内容であり、いつぞやのように戦争についてとか社会構造のような話しには発展しないと予想され、とても興味があり出席しました。実際に様々な考えが出されて、ホワイトボードがみるみるうちに瞬く間に埋め尽くされていくのに非常に驚きました。

さて、今回テーマの関連書籍も読まずに、さらにこのブログの中に<和>の精神を 空気を読むことにつながることになっているのにも違和感を覚えながら、テーマについて考えてみました。それを自分なりに読み替えると異論は多々あると思いますが、 言語的と非言語的 になりました。そしてこの時点で、完全にいうべき意見は自分的に全くなくなってしました。それで今回は発言はしないで参加しようと決めました。

<対話> についてはイメージしやすかったためか、かなり共通概念を持つことに成功していたようにも思われました。しかし、<和>の精神については(日本)と(調和)との受け取り方で混乱がみられましたが、何とか後者の方で話しが進み、場の空気 というような雰囲気で統一されたようでした。
一通りの共通理解のもと、より分かりやすい<対話>に対して話しが進みました。

<対話>は その成立要件が論じられるとともに 話す、聞く、考えるの3点セットとか信頼関係を基盤とした理解が必要といった言葉が出てきました。
私の概念では、<対話>は話すこと、つまり言語を用いたやり取りをいうものだと考えています。そこには理解、同意、存在、意見などは別に問題でないような気がしています。まして信頼などということは微塵も考えていませんでした。自分的には異国語であってもいいし、極端には記号でもいいのではないかとも考えています。そして今回も自分はきっと少数派であったのではという気がしています。

つぎに、<和>の精神。<対話>に関して詳しく分析されすぎた反面、<和>の精神については、ある一定の概念の統一はみたものの曖昧さの残る感がありました。私的には、<対話>と同等に扱って欲しい気もしました。そこで私の概念になりますが、<和>からイメージするものは自分的には(日本)の方です。そして<対話>との対比でいえば、禅の世界のような問答、一子相伝の奥義めいたようなもの、つまりはある形となって表現できないような<以心伝心>のことと考えています。あくまで、日本人的な そんなこと言わなくてもわかるだろ。皆まで言うな。本音と建て前。的なものと思っています。
もちろん、空気というのを自分はどちらかというと考える方ですが、今回にあっては<和>の精神のことを、空気を読むことには結び付けがたい気がしました。むしろ 場の空気を読むってどういうこと?の方が<和>の精神よりもシンプルだったかなと感じています。(主催者側の思惑がいろいろとあったとは思いますが、ケチをつけて申し訳ありません)

そこで<和>の精神は、形のない感情、気持ち、心のやり取りのようなものではないかと思うわけです。改めて、<対話>は言語のやり取りであって、それが通じるか通じないかは問題ではないように思えます。<後者>は言語ではないやり取り(気持ちの汲み合いのようなもの)であって、こちらも別に信頼までも要求はされないような気がしています。

最後に発言された女性の方から、異なる言語で考えることが参考になるとの話しがあり、とても興味深かったです。彼女は<対話>に<talk>を当てていましたが、第一の用法に感情の伝達までが含まれているのに驚かされました。私の概念の<話すこと>にはウエット(カフェ中にでた単語)さ のカケラも含まれず、ドライなものであったと気付かされました。そこで彼女に対する質問してみたいことは、<和>の精神にどんな英訳を当てますか?です。
<harmonized emotion>とのでたらめな造語を考えましたが、<talk>とつり合いが悪い。そうすると<対話>は<talk>なのかとの疑問が湧きました。
そして <conversation>と<communication> というそれこそ分かるとも分からないようなテーマが出現してしまい、自分の語彙のなさを反省しました。

とてもあっという間の2時間で、本当に(有難いお話し)を聞かせていただけてよかったです。

P.S.
生誕50周年パーティーを早々に失礼してしまい、申し訳ありませんでした。
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いい日旅立ち (まさおさま)
2011-12-26 11:40:40
Tさん、詳細なコメントありがとうございました。
ほとんどこれが第7回カフェ報告のようになっていますね。
ありがたいことです。
サマリー作成担当のぢゅんちゃんは、生誕50周年パーティ終了後の深夜の高速バスで成田に旅立ち、
今頃は韓国旅行を楽しんでいるはずです。
私はそもそも高速バスなんて仙台より遠くへ行くのに使ったことがありませんし、
ましてやあんなに飲んだあとの深夜バスに乗ろうなんてまったく考えもつかないのですが、
この世には想像を絶する数寄者が存在するものですね。
サマリーは数寄者が帰国するまでしばらくお待ちください。

実は、皆さんの感想用紙も、
ぢゅんちゃんが韓国まで持っていってしまったものと思い込んでいたのですが、
あの日以来久しぶりに自分のバッグを開けてみたら、そこに全部入っていたので、
本日未明に急遽アップさせていただきました。
ぼくとぢゅんちゃんの2人が組んでイベントをやろうということ自体、
ムリがあるのかもしれません。
とはいえ皆さまのご協力とご理解を得て、今後もがんばっていきますので、
なにとぞよろしくお願い申し上げます。

せっかく山形からお越しいただいたのに、パーティのときにお話しすることができませんでした。
申しわけありませんでした。またの機会にゆっくり語り合いましょう。
今回お書きいただいたコメントに対する内容的なレスポンスはまた別にアップさせていただきます。
どうもありがとうございました。
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「対話」のない社会 (884)
2011-12-27 22:59:45
こんばんは。
今回のてつがくカフェに先立って
読んでおくとよいと薦められた本が手に入らず
ようやく図書館でかりることができました。
著者の中島義道さん、だいぶ主張がアクがありますね(笑)。
その前に「私の嫌いな10の人間」を読んだせいもあると思いますが…。

彼が批判する典型的日本人像の私にとって(笑)
この本を読むことは大変なことでした。
対立を避けて対話をやめて日本人にとって
今回の大災害は対話の起動スイッチとなるのでしょうか?

ぢゅんさんもこの本を読むことを薦めていましたが
読んでなんとなくわかるような気がしました。
それでも、私は対話の重要性を感じる自分と
集団の和を重要とする自分の心情が引き裂かれている感じがします。
両者が対立概念ではないと思いますが、
この両者がどう調和するべきなのか?
もう少し深く考えてみたいですね。

別件ですが、
次の書評カフェではどんな本を読むのでしょうか?
あらかじめ早めに教えていただけると幸いです。

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ジャーゴン (まさおさま)
2011-12-28 00:41:17
884さん、コメントありがとうございました。
Tさんや884さんからご指摘いただくまでもなく、
23日のてつカフェの最中にきづいていたのですが、
「対話」と「和の精神」が対立概念であるということを、
私たち世話人2人は自明のものとして前提してしまっていたようです。
それは2人が中島氏の『対話のない社会』を読んでいたからこそ陥った陥穽です。
これはまさに哲学ジャーゴン (専門家にしか通じない専門用語) でしたね。
「てつがくカフェ」はジャーゴンを排して語り合う場にしたいと思っていたのに…。
この反省を今後に活かしていきたいと思います。
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課題図書 (まさおさま)
2011-12-28 00:50:35
あ、書くの忘れてた。
書評カフェの課題図書ですが、『dream body』 という非売品のマンガです。
近々正式に告知させていただきますが、非売品ですので、
参加申し込みされた方にあらかじめお送りするという形を取りたいと思います。
福島での第1回目の書評カフェに、「非売品」 の 「マンガ」 を取り上げるというところに、
私のこの作品への並々ならぬ思い入れを感じていただければと思います。
詳しくは近くご案内させていただきます。
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テーマの立て方について (まさおさま)
2012-01-01 23:11:19
Tさんに、今回のテーマが疑問形ではなかったので答えようとする回路が発動しなかった、
とのご指摘をいただきました。
これもたいへんもっともな指摘で、今までは決まって疑問形にしてきました (特別編は除く)。
それを今回、疑問形にしなかったのは問題だったなあと思います。
やはり上述の 「ジャーゴン」 の問題で、この2つを並べれば当然 「?」 が湧くだろうと、
世話人の側が勝手に思い込んでいたのがいけなかったのだろうと思います。
せめて、「〈対話〉か、〈和〉の精神か?」 といった二者択一の問いの形で表せていたら、
もう少し、世話人の側がこのテーマに込めていた問題性が理解いただけたかもしれません。
とはいえやはり、哲学ジャーゴンを排するほうが先ですね。
(「ジャーゴン」 という言葉もジャーゴンですので、2つ上のコメント欄をご参照ください。)
その上で、皆さんの思考と対話を発動できるような問いを発していけたらと思います。
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