てつがくカフェ@ふくしま

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第8回シネマdeてつがくカフェ報告―『天皇と軍隊』―

2015年11月23日 14時49分09秒 | シネマdeてつがくカフェ記録


遅まきながら、第8回シネマdeてつがくカフェ・『天皇と軍隊』の報告をさせていただきます。
当日は、ゲストに渡辺謙一監督、藤野美都子さん(福島県立医大教授)、二瓶由美子さん(桜の聖母短期大学教授)をお招きしてのてつがくカフェとなりました。
時間も短かったため、十分な対話はなかなか難しかったのですが、渡辺監督の貴重なお話や、藤野さんと二瓶さんの熱い思いを聞かせていただけただけでも、充実した時間を過ごさせていただけました。
遅きに失してしまいましたが、御三方には、心より御礼申し上げます。 



観客:「天皇のことですけれど、私の父も兵隊に行ったんですが、同じ部隊が朝鮮に送られたとき背が小さいということで、父は行かずに済んだけれど、その部隊は全滅したそうです。天皇に戦争責任があると父から聞かされていたから、天皇が象徴として残っているのは幼いころからおかしいなと思っていた。けれど友達の家に行くと天皇と皇后の写真があったりして、おかしいなと思っていて、それと大きくなってから天皇に対しての批判の話をすること自体があまり言いにくい雰囲気があると感じていました。」

ファシリテーター:「天皇のタブーに関して話が始まったのはいいですね。」

観客:「私は小学校3年生の時に玉音放送を耳にしたけれど、何を言っているかわかりませんでした。神官の後継者が減っているという中で、明治維新の時に神仏分離を行いない、仏寺が壊されたという運命をたどった寺社が多いと聞きますが、(神社である)私の家でも妹しか後継ぎしかいません。福沢諭吉が天は人の上に人をつくらずといえりと紹介したそうですが、今、美智子さんや雅子さんがどんな思いをしているか。人間らしい生活ができているでしょうか。いかにヒエラルキーのために天皇制を必要としたか。ノーモアフクシマ・ヒロシマを感じながらこの映画を観ました。誰が責任がとるのかという問題は放射能の問題と同じです。戦時戦後を生き、ここに立っていること皆さんに知ってもらいたいと思いました。」

ファシリテーター:「福島のことと絡めたお話でした。」

観客:「古事記がとても好きで、全国に神社で御朱印をもらうことを趣味にしていましたが、この映画を見て、あまり見せびらかせないようにしようと思いました。」

観客:「前々から思っていたのですが、徳川慶喜も責任を問われなくて、今度の天皇もそうだし、福島原発もそうだし、旭化成の問題もそう。モラルハザードですよね。日本はめちゃくちゃ。それは日本人の特質なのでしょうか。フランス革命と全然違い、寄らば大樹の陰という感じです。もう少し日本人は徹底して責任を問わなければいけない。天皇は裁判の被告人にもならないで済んでいるわけですよね。それがなんともなぁという感じで、映画を観ていました。」

観客:「ちょうど明治維新の肖像を思い出しながら、映画を観ていました。何か日本人の権力は二重構造というか、あいまいさを残しているなと。天皇の名を語って実権を奪うことをやってきたのが明治維新だったし、その延長戦で軍国主義をやってきた人たちの子孫もそうだし。国民もまた天皇の名において、偶像崇拝的なことなのかもそれないけれど、喜んで死んでいく。この二重性がこの映画でも痛感して、天皇と軍隊は通史の映画だなと感じました。迫力のある映画だった。なぜ、いつも外からしか来ないのか。原発もそう。こうした構造が根づいたのは江戸時代から延々と国民性をつくってきて、世にも不思議な心性を持っているなぁと感じました。」

観客:「監督に質問したい。この映画で、すべての要素を盛り込みえた実感はあるのですか?」

監督:「通史だからチョイスしなければいけないですよね。たとえば、戦後処理の中で憲法草案のくだりでいえば、いましきりに憲法改正は押しつけられたと言いますよね。ベアテさんはたった一週間で憲法草案を作れと言われ、それを我々は押し付けられたと言われます。けれど、実はそれは日本人も作っていて、自民党憲法草案や社会党草案などがありました。GHQはその自民党案にバツをつけて突き返し、国会で議論する逃げ道を作ってあげたわけで、その上で国会で承認し、採決して通したものなのだから、決して現憲法は押し付けられたものではない。そういうことを検証していくと時間的に足りなかったと言わざるを得ません。東京裁判と憲法と天皇の広島巡行は三つ巴になっていて、あの当時は、日本のジャーナリストが広島・長崎に入るためには許可が必要だった。つまり、広島・長崎は禁域にされていた。そこへ天皇が行く、それはGHQの政策として行くように仕向けられのだけれど、47年の12月というのは、憲法は国民の総意とされていましたが、東京裁判はまだ途中でした。その中で、天皇が12月7日に広島に行くというのはシンボル的な意味がありました。それは真珠湾の屈辱の日なんです。その日に天皇を広島に連れていく、これは計画的でした。映像の奥には原爆ドームが見えるけれど、あれはアメリカにとっては最後のピリオド。その前で万歳をする広島市民がいる。それが同じ画面に同居する。そこに喝采する市民が映っている。それは、確実にアメリカの視線で見ると、君たちを僕らの手の内に収めたよという意味になる。東京裁判が48年11月に結審すると、A級戦犯の処刑を皇太子(現天皇)の誕生日12月23日に執行するわけです。日本国民が彼の生誕を祝うたびに、A級戦犯を思い出すような仕掛けになっている。起訴状の提出は4月29日の天皇誕生日、開廷は憲法記念日の5月3日。こういう仕掛けが潜んでいる。」



観客:「天皇と軍隊の関係をつなげた映像を見ることは、今まで経験上なかったので勉強になりました。この映画が責任問題に終始しているなかで、気になった点があります。1つは、なぜ渡辺監督はフランスにいて日本人としていることの意味です。2つ目は、天皇だけでなく石原莞爾も満州事変を起こしたのに責任を問われなかった。脳と身体との関係で見ると、みんなの体は血筋でつながっているけれど、脳の中ではみんな平等だよねという文化的な考え方と文明的な考えがあって、戦争反対的な要素をからめてみると、身体と脳の葛藤のように見えるのですが、この点に関してはいかがですか?」

監督:「私は97年にフランスへ行くわけですが、神戸震災とサリン事件は大きな原因であるけれど、プロフェッショナルとして向こうへ行く意味は、91年以降、イラク戦争などがある中でナショナリズムが非常に高まっていて、それは世界的な傾向だったけれど、一緒に働いていた隣のチームが、女性戦犯法廷のNHK改ざん問題でものすごく叩かれる様子を横で見ていて、そういう傾向から制度的に日本じゃ自由な番組作成ができないなと感じていました。日本のテレビ局は自分で作って放送するシステムになっているけれど、フランスでは放送局は放送権しかもっておらず、放送局は外部のニュース放送権を買い上げるだけで、番組を作った人間がどこで放送するかは自由。それがないとディレクターが自分で番組を作っても、そのディレクターには何もできない。日本のテレビ界にはそれがない。そうであれば、新たな挑戦をして向こうへ行くことにした。現地にいる強みを生かして、日本を向いて、しかも、日本人として日本人のアイデンティティを保ちながら、ドイツ人やフランス人に通じるものを作ろうとすれば、一度そこに反射させて日本を見るのでプリズム効果を生かしながら、それでも僕は日本人なのだよと思いながら作っています。
二つ目の質問に関して言えば、天皇には4つの顔があります。古層としての古代中世神話の時代の顔、近代天皇国民国家が明治維新から大変動なんだけれど、そこでプラスの効果を出したのは士農工商というカースト制度をひっくり返すわけですから、一君万民の下で士族も農民も地ならしして国民皆兵を可能にした。その点で、絶対君主としての天皇制に変わるのがその時期。その時代に対する反省から祭政一致・絶対君主を解体し、政治権力を剥いで「象徴」という曖昧な形に、定義しえない形にしながら、天皇は祭主としての顔はずっと保つ。これに対しては語ってはいけないとされているけれど、いま政治を動かしている人たちの中には、強烈な意思で天皇を元首に位置づけようという意思が働いているし、自民党憲法改正草案にはそう書いてある。そうすると、天皇の世継ぎの危機感というのは深刻ですから、女系天皇制容認に反対したのは安倍晋三ですが、男系を保つためには皇籍離脱をやめ宮家の復活をするしかない。マッカーサーは天皇を救済し存続させたけれど、側室制度がなければ一家族が続くはずがない。明治天皇も大正天皇も側室の子。男系は維持できないとわかって側室制度をなくした。ですから、現在の天皇制というのは、マッカーサーが仕掛けた時限爆弾だったわけです。貴族制の復活。それは遠からず突きつけられる。だから、今から天皇制をよく考えておいた方がよいわけです。」

観客:「くり返し使われる映像と、そうでない映像があることが不思議です。広島巡幸の映像は、広島市民の犠牲を肯定する映像であり、これはひどいと思った。天皇制は、私はいらないと思っているけれど、個人としての天皇が原爆投下の犠牲者に就いて考えを問われたとき、「仕方がなかった」と答えた場面は、絶対に個人の責任として許せないと思った。この他にも、タブー視される映像はあったのでしょうか。」

監督:「天皇に関する映像のタブーはあります。NHKはもっていますね。実は、この質問の前に天皇が「ご自分の戦争責任をどう思われますか」と記者に質問される映像があるのですが、このシーンをどう使うかについては、かなりフランス人スタッフとの間で議論しました。というのも、この記者会見での質問に対して、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と拒否するわけです。「文学的な質問」という答え方は、何回か見ているとわかってくるんだけれど、一見でフランス人とドイツ人が見てもわからないだろうと判断して採用しませんでした。NHKでは「天皇」というタイトルが引っかかります。そのタイトルがあるだけで放送できない。それほど日本のメディアは本当に神経質。ますます最近はひどくなっています。」

ファシリテーター:「時間も無くなってしまいました。最後にゲストに一言いただきましょう。」

藤野:「映画を見ていて、一方でマッカーサーは天皇を利用したというのは強烈に印象に残りました。とはいえ、なぜ日本が戦争に突入していったのか、という自覚的な反省がなかったから今に至ってしまったのではないでしょうか。天皇の葬儀を出す際に、憲法学者として異議を唱える主張をしていると、そんなことに関わると殺されるよと母親に言われたのが印象的でした。割と権力に懐疑的な親ですら、そんな政治権力に対する意識があるところに根深さを感じたものです。」

二瓶:「戦後50年たった時にベアテさんの『1945年のクリスマス』という本に衝撃を受けた覚えがあります。押しつけ憲法論というのは、脈々とあるのですが、小高出身の鈴木安蔵の役割とか、GHQのメンバーは軍人だけれど、ほとんどが弁護士の資格をもった人々だった。一つ一つを丁寧に見ていくと誤ったイメージが正されていくことがわかります。自分の学生たちには正しいもの、真実を見つめる学び方を伝えたい。事実は何かを学生たちは自分の心で考えてくれるものです。」

監督:「僕は、こういうイベントを来週の土曜日にパリでフランス人を相手にやりますが、彼らは、いま福島はどうなっている?と、とても気にしています。福島の人たちの声には政治性があるので、どんどん発言してほしい。はっきりしていることは、日本は今、ナショナリズムに覆われていて、ほとんど全体主義的民主主義的という、相反するような状態にあります。この自由の軽視と殺すことが、ほとんど強要されかかっている社会状況の典型が、福島の原発であり、沖縄基地の問題です。いまの日本は、個人主義やメディアがどんどん社会全体が委縮しているのです。」

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