野球小僧

新選組のふるさと歴史館 / 東京都日野市

幕末に活躍した「新選組」。実は、新選組の活動が幕末のたった5年間という意外な短かさです。

局長・近藤勇さん、副長・土方歳三さん、井上源三郎さん、沖田総司さんらが集ったのが、現在の東京都日野市になります。ここで、武術に励んだ彼らは、後に新選組となり、歴史にその名を刻み込みました。

その日野市に残されている新選組資料を集め「新選組のふるさと歴史館」で新選組の歴史を中心に(規模は小さいですが)展示されています。

近藤さん、土方さん、沖田さんなどは語られることも多いのですが、新選組には10人の組長が名を連ね、京の治安維持のため日夜警護にあたりました。

■沖田総司 / 一番隊組長
近藤さんの秘蔵っ子ともいえる存在。近藤さんが道場主を務める天然理心流の道場「試衛館」の塾頭でした。10代で免許皆伝。近藤さんたちと浪士組として京に上り、新選組一番隊組長に抜擢されます。剣の腕は、隊で1、2を争うほどの強さで、有名な「池田屋事件(1864年7月8日に、京都三条木屋町の旅籠・池田屋に潜伏していた長州・土佐藩などの尊王攘夷派を一掃)にも参戦。隊の撃剣師範も務めていました。不逞浪士の取り締まりや隊内の粛清にも、幾度もその剣が振るわれたといいます。

池田屋事件の際に肺結核の発作を起こしますが、その後も任務をこなしていきます。しかし、戦線離脱することも多くなり、千駄ヶ谷の植木屋さんで療養しましたが、病状が悪化しそのまま静かに息を引き取りました。27年の生涯でした。

■永倉新八 / 二番隊組長
「試衛館」の食客(居候のようなもの)でした。10代で神道無念流の免許皆伝。近藤さんたちと浪士組として京に上ります。やはり撃剣師範として沖田さんと1、2を争う剣の遣い手でした。池田屋事件では獅子奮迅の働きをし、鳥羽伏見の戦い(1868年1月27日~30日に京都府南部で行われた・甲陽鎮撫隊(1868年に新選組が旧幕府から甲州鎮撫を命ぜられた名称)にも加わりました。しかし、甲陽鎮撫隊で敗走後、新選組を離脱し、「靖共隊(せいきょうたい:旧幕府軍に属する組織)」に参加。会津まで転戦したあと隊を離れ、江戸に戻りました。

そのあと北海道の松前藩への帰藩が許され、家督を相続。晩年は小樽で生活を送ります。1915年に77歳で亡くなるまで、新選組の語り部として「浪士文久報国記事」を書き残し、回顧録を「小樽新聞」に連載、「新選組顛末記」として出版。また、東京板橋に新選組の慰霊碑も建立。新選組の汚名返上に尽力していました。

■斎藤一 / 三番隊組長
沖田さん、永倉さんと並ぶ新選組の剣の遣い手。新選組の創立期に入隊し、撃剣師範として3番隊組を率いています。流派は「無外流」。しかし、そのほかのことは謎だらけです。新選組では戦いの最前線にその身を置き、幾多の修羅場をくぐり抜け、また、スパイ活動もしていました。会津では、新選組隊長として土方さんと別れて会津に残り戦い続けました。

会津落城後は、警視局に警部補として就職。その後結婚し、3人の子どもにも恵まれます。71歳で生涯を閉じましたが、最後は正座をして絶命したそうです。

■松原忠司 / 四番隊組長
自身で創設した流派の北辰心要流柔術師範として凄腕の持ち主で、新選組の前身である浪士組の時に入隊。性格は温厚で、池田屋事件や「八月十八日の政変(尊王攘夷派の公家と長州藩を朝廷から追放したクーデター)」での活躍が記録に残っています。

しかし、30歳のときに四番隊組長となって2ヶ月後に平隊士へ降格され、4ヶ月後に亡くなっていますが、理由は不明です。

■武田観柳斎 / 五番隊組長
浪士組から新選組に代わるころに入隊。甲州流軍学を収めており、近藤さんに重宝され、五番隊組長と文学師範に就任、新選組軍師としての地位も確立します。新選組での活躍実績も多数残っていますが、性格的に問題があり、近藤さんや土方さんにあからさまにこびへつらう人物だったようで(いつの世の中にもいます)、永倉さんなどからは敵視されていたそうです。

幕府がフランスの軍事訓練を取り入れると、武田さんの軍学は古いものとして疎んじられ、次第に居場所を失っていき、脱退を申し入れ受理されます。その後は同志と手を組み、独自の勤王活動を行ったり、新選組に害をおよぼす金策活動を行ったりしていました。しかし、新選組に察知され、37歳のときに同士ともども暗殺されたといわれています。

■井上源三郎 / 六番隊組長
近藤さんの兄弟子。見た目も行動も派手でなく、物静かでしたが頑固な面も持ち合わせていましたが、天然理心流の免許皆伝の腕前は確かなものでした。近藤さんや土方さんからの信頼は絶大で、家族のような存在でした。

新選組での働きも六番隊組長にふさわしい活躍を続けましたが、鳥羽伏見の戦いの3日目に銃弾を腹部に受け、40歳で亡くなっています。最後まで己の「士道」を貫いた生涯でした。甥の井上泰助さんがのちに、「源三郎の首を持ち帰ろうとしたが、重くて近くの寺に埋めた」と証言していますが、どこに埋めたかは不明です。

■谷三十郎 / 七番隊組長
槍術師範でもあり、武士の身分だったこともあり、腕も確かで近藤さんにとっては頼りになる存在でもありました。池田屋事件などいくつかの活躍が記録として残っています。ただし、横柄な気質だったようです。

ただ、名前があまり挙がって来ない理由は、34歳で突然亡くなったことが一因のようです。隊内で何か問題を起こし、暗殺された、大酒飲みだったためそれが原因で急死したなどの説があります。

■藤堂平助 / 八番隊組長
北辰一刀流の目録(免許に匹敵)を十代で取得するほどの腕前で、最年少組長。「魁先生(さきがけせんせい)」と呼ばれ、戦闘では先陣をきる血気盛んなところを見せ近藤さんや土方さんの信頼も厚かったようです。新選組参謀および文学師範となる伊東甲子太郎さんを招き入れたのは、寄り弟子であった藤堂さんでした。

しかし、伊東さんが新選組を脱退し、御陵衛士となったときも付き従って脱退します。最終的に伊東さんは近藤さんや土方さんを殺して新選組隊士を御陵衛士に取りこもうとした陰謀がばれ、34歳のときに新選組隊士数名により暗殺(油小路事件)されます。このときに、伊東さんの亡骸を運びに来たところを新選組に取り囲まれ、「平助だけは助けよ」との近藤さんや土方さんの思いもむなしく斬りあいの末、23歳で命を落とすことになりました。

■鈴木三樹三郎 / 九番隊組長
伊東さんの実弟。伊東さんとともに新選組に入隊し、九番隊組長に任命されます。しかし、新選組で残した実績はほとんどありません。

剣術が苦手で永倉さんに習っていたとも、素行不良で九番隊をまとめられなかったともいわれ、そのため組長なのにほとんど取り上げられることがありません。伊東さんと一緒に新選組を脱退し、油小路事件のあとは新政府軍側として戊辰戦争に参戦。明治維新後は警察官として活躍し、81歳で生涯を閉じました。

■原田左之助 / 十番隊組長
永倉さんと同じような試衛館の食客でした。信頼は厚く、浪士組の頃からほぼすべての任務で活躍を残しています。性格は威勢がよく短気。

のちに仲の良かった永倉さんと同時期に新選組と袂をわかち、靖共隊副長に就きますが、会津へ向かう途中、突然「用事を思い出した」といい江戸へ引き返し、そのあとの消息ははっきりしません。「彰義隊(1868年に徳川慶喜さんの警護などを目的として結成)」に入って上野で29歳で戦死したとも、生存して大陸に渡り馬賊の頭目になったともいわれています。また、1907年ころには、「原田左之助」を名乗る人物が現れたという話もあります。

時代が大きく変わる中で、若くして新選組組長として戦ってきた方々。幕末のわずかなときではありましたが、花火のように瞬間的に光輝いた新選組。一人ひとりにも歴史があります。

今日も、私のブログにお越しいただいてありがとうございます。

今日がみなさんにとって、穏やかで優しい一日になりますように。そして、今日みなさんが、ふと笑顔になる瞬間、笑顔で過ごせるときがありますように。

どうぞ、お元気お過ごしください。また、明日、ここで、お会いしましょう。

コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。

コメントありがとうございます。

私は「そこそこ」は知っていますが、時間とともに組長名と組番号は混乱気味で、一部は失念状況でした。

今週は主に新選組の話でしたが、たまにはこういうのも新鮮でいいでしょう。
eco坊主
おはようございます。

このところ新選組関連続きますね~
”燃えよ剣”の番宣隊なのか、攘夷派の弾圧を画策されているのか(笑)
組長も沖田さん、永倉さん、斎藤さん、原田さんなどは知っていますがその他の組長は・・・私はその程度です😅
幕末から明治までの動乱期、戦国時代と同じく(かどうかは??)色々な思想を持った若者が国を想っていたのですね。

私はせっせと刺し身や生野菜の新鮮なものをいただきます。


まだまだ油断はせずに感染防止対策を続けます。
そしてできる協力は続けていきます。必ず笑顔は戻ると信じて。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事