職業は従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍、贈正二位。平安時代中期の貴族・武将です。
近江三上山の大百足(むかで)退治の伝説で有名なお方です。
近江国瀬田(今の滋賀県瀬田)の唐橋に大蛇が横たわり、人々は橋を渡れませんでした。そこを通りかかった藤太さんは、その大蛇を踏みつけて、橋を渡ります。
すると、その夜、美しい娘が藤太さんを訪ねて来ます。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間に藤太さんが踏みつけた大蛇でした。娘は龍神一族が三上山の大百足に苦しめられているため、藤太さんにこれを退治して欲しいと頼んだのです。
藤太さんはこれを快諾し、三上山に向かうと山を7巻き半する大百足が現れます。
藤太さんは矢を射ったのですが通じません。そして、最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することが出来ました。
そして、藤太さんは龍神の娘からお礼のしるしに米が尽きない米俵、切っても減らない反物、食べ物があふれてくる鍋、美しい音色の釣鐘などを、贈られました。この釣鐘は後に大津の三井寺に奉納され、現在でも三井の晩鐘として美しい音を鳴り響かせているそうです。
なお、この米が尽きない米俵にちなんで、藤太さんは俵藤太秀郷と呼ばれるようになったそうです。
また、平将門さんが兵を挙げて関東8ヵ国を征圧する、平将門の乱で将門さんを討ったお方でもあります。
天慶2年(939年)5月ころ。武蔵権守(今の東京都八王子付近)となった興世王さんは受領として赴任してきた武蔵守百済王貞連さんと不和になり、興世王さんは将門さんを頼るようになります。また、常陸国(今の茨城県)の藤原玄明さんが将門さんに頼ってきました。この玄明さんは常陸国から追捕令が出されていましたが、将門さんは玄明さんを引き渡しませんでした。
そのうえ11月21日に将門さんは軍兵を集めて常陸府中へ赴き追捕撤回を求めますが、常陸国府は拒否し、将門さんはやむなく戦うこととなります。このとき、将門軍は1000人余ながらも国府軍3000人を打ち破り、常陸介藤原維幾さんは降伏します。
この事件によって、将門さんは不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻す形になってしまいます。その後、将門さんは12月11日に下野、15日に上野、19日に上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」を自称します。
天慶3年(940年)2月1日。平貞盛さんが下野国押領使藤原秀郷さんと兵4000を集めているとの報告が入ったため、将門さんは出撃。将門軍の多治経明さんと坂上遂高さんらは貞盛・秀郷軍を発見すると将門さんに報告もせず攻撃開始。しかし、秀郷軍に玄茂軍は敗走。貞盛・秀郷軍はこれを追撃し、下総国川口にて将門軍と合戦となります。将門さん自ら陣頭に立って奮戦しますが、数に勝る貞盛・秀郷軍に将門軍は押され、ついには退却となります。
14日未申の刻(午後3時)。貞盛・秀郷・藤原為憲軍と将門さんの合戦が始まります。北風が吹き荒れ、手勢400の将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立て、貞盛・秀郷・為憲軍は2900人が逃げ出し、精鋭300余を残すこととなってしまいます。
勝ち誇った将門さんが自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を背負って連合軍が反撃に転じます。将門さんは馬を駆って陣頭に立ち奮戦しますが、いずれから飛んできた矢が将門さんに命中し、反乱は治まります。
このとき、近江三上山の大百足を退治した時に助けた、龍神の助けがあって将門さんの弱点を見破り、討ち取ることができたと言われています。
将門さんを討った秀郷さんですが、資料にはほとんど名前が見られず、その生涯は詳しく記録されていません。