おそらく、どこの学校にも伝統的な応援歌や応援曲があると思います。それが、何代にもわたって受け継がれていくのには、いろいろな理由があると思います。
そして、千葉県船橋市立船橋高にも、受け継がれていくメロディーがあります。それは「市船soul(いちふなソウル)」という応援曲です。
作曲したのは2014年3月に卒業した浅野大義さん。目立ちたがり屋のトロンボーン吹きだったそうで、卒業前に顧問の先生に願い出ました。
「僕にオリジナルの曲を作らせてください」
「出来が良かったら採用してやるよ」
音大に通いはじめたその年の初夏、浅野さんは母校を訪ね、先生に4枚の譜面を手渡しました。それを見た先生は「長いよ」と苦笑いし、ペンで少し手をいれたそうです。
そして、後輩たちが奏でる「市船soul」が、高校野球の試合で流れ始めました。
2015年の夏、浅野さんは外出から家に帰ると、吐き気がして、せきも止まらなくなりました。詳しい検査の後、医者から「胸にガンがあります」と告げられました。
抗がん剤投与と手術をし、2016年4月に半年ぶりに退院しました。5月になって、また頭にガンが見つかりました。治療を終えた7月に家に戻りました。
そのころ、市船高野球部は千葉大会を勝ち進んでいました。
準決勝。
同点の六回裏1アウト満塁の場面で「市船soul」が響き、ランナー一掃の3ベースが飛び出します。
その夏の日差しが照りつける応援席に、ニット帽をかぶってトロンボーンを吹く浅野さんの姿がありました。
「自分の曲をやってもらうのはうれしいよ」
体を気づかう仲間に照れ笑いを見せていました。
決勝。
六回裏、ふたたび「市船soul」が流れ、タイムリーヒットで2点差を追いつきます。浅野さんも立って演奏を続けました。でも、最終回に1点取られ、甲子園には出場することが出来ませんでした。
その1ヶ月後。浅野さんはけいれんして意識を失いました。また、頭にガンが出来ていました。
しかし、家族や友人に弱音は吐きませんでした。
12月に彼女にLINEで
「俺の心は死んでても俺の音楽は生き続ける」
と伝えました。
やがて、身体が動かなくなり、目や耳も悪くなり、今年1月12日、20年の生涯を終えました。
「告別式で大義のために演奏しよう」
浅野さんと同じ世代で部長だった河上優奈さんが連絡を回し、演奏できる元部員を集めました。
告別式の2日前、100人以上が母校に集まり、静まりかえった夜の校舎で、河上さんが「最高のかたちで大義を送りだしたい」と言いました。初めて顔を見る先輩と後輩が音を合わせ、練習を終えて全員が学校を出たときには日付が変わっていました。
告別式の日。楽器を持った喪服姿の人が葬祭場に次々とやって来ます。店に頼みこんで休みをもらった美容師。1歳の子を親に預けてきたママ。演奏者は164人になりました。
祭壇には浅野さんの遺影と愛用のトロンボーン。
白いひつぎを囲んで楽器を構える教え子たちに、先生がタクトを振りました。「魔女の宅急便」、「夜明け」、「手紙」・・・。昔、みんなで練習した思い出の曲を奏でます。
そして、最後はあの曲。
「大義が作った曲だ。いくぞー」
先生が言います。
明るいメロディーが葬祭場に響き、トランペットを吹く女性の頬を、涙が伝い落ちます。
「タイギ タイギ タイギ」
球場では選手の名前がコールされますが、この日だけは作曲者の浅野さんの名前がコールされます。
会場には母校がつくった横断幕が掲げられました。
「浅野大義君 市船soulは永遠だ」
市船soulはこれから何年も、何十年も、浅野さんの想いと一緒に受け継がれていくメロディーとして奏でられていくことでしょう。
一人ひとりに、一つづつの応援歌があると思います。その応援歌を大事にして欲しいと思います。
夏大開幕まで、あと8日。甲子園まで、あと6勝。
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まっくろくろすけ
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