ラジオが夜9時を告げてニュースが始まりました。その時、表戸の隙間から1匹の大きなゲンジボタルが光りながら、店に入ってきました。それに娘さんたちが気付きました。
「お母さーん、宮川さんよ。宮川さんが帰ってきたのよ」
娘さんたちの声に、鳥浜トメさんは暗い店の中央の天井の梁にとまって明るく光を放っているホタルを見つけました。1945年6月6日、鹿児島県知覧町にあった富屋食堂でのことでした。
1942年に知覧に飛行学校(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場)が出来た時、富屋が軍の指定食堂となりました。訓練に明け暮れ、知覧で出撃を待つ少年兵はこの食堂に出入りし、女主人のトメさんを母親のように慕っていたそうです。彼らのために出来ることとは、母親代わりになるしかないと思ったトメさんは私財を投げ打って尽くしていました。
少年兵たちが壁にかかったメニューを見ていると、「何か食べたいものはあるかね。食べたいものなら、何でも作ってあげるよ。そのために日曜日には材料を用意してみんなの来るのを待っているんだからね。何でも言ってごらん」と声をかけます。「アンコロ餅はどうか、この大きさなら何個欲しい?」と聞くと、もじもじしていた少年たちは「3個!」「おれも!」と我先に答えたそうです。また、ためらいながら「天ぷら」と言う少年には「おとといあたりから海がしけていて、白身のいい魚がないから、イカとエビと野菜だけで我慢してくれる?」と言うと「おれ50銭しか持ってないんだ。エビって高いんだろ」と言われ、トメさんは笑いながら「男はお金の事は言わないの」と言ったそうです。時には「本日休業」の札を出して、少年たちの貸し切りにすると、畳の部屋に寝そべったり、トランプや将棋に興じたり、郷里に手紙を書いたりもしていたそうです。実際には着物や家財道具を売りながら、少年兵たちに食べさせてやるので、家は少しづつ広くなっていったそうです。
1945年3月28日の夜、小林威夫少尉が訪ねて来ました。小林さんは教官として知覧に駐在していたことがあり、わが子同様に可愛がった青年でした。
「小母さん、小林です。久しぶりにお目にかかれてこんなうれしい事はありません」と言う。トメさんは小林さんの好きなものを作りましたが、小林さんは手を付けません。
「今度はどちら方面に行くの」と聞くと、「小母さん、聞かないでくれよ」と言われました。「もしかして、この人はあの特攻隊に選ばれたのだ。今、目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて、自分の娘たちとあまり年の変わらぬこの子が明日には死んでしまうなんて、そんなことってあるのだろうか」と思ったそうです。トメさんは小林さんの肩を抱いて泣きたかったそうですが、立ち上がって、廊下に出て、後から後から途切れることなく流れ落ちる涙をかっぽう着の裾で涙を拭くのが精いっぱいだったそうです。
翌日、小林さんは最後のお別れに来ました。「小母さん、これまでのことはほんとうにありがとう。小母さんには実のおふくろよりやさしくしてもらった。忘れませんよ。この思い出を持ってあの世に行きます。達者で長生きしてください」と淡々と言いました。トメさんは手作りのおはぎを渡し、「部下の下士官の方へ差し上げてください」と言うのがやっとだったそうです。小林さんは最後に敬礼をし、ゆっくりと飛行場の方に戻って行きました。
光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、1943年に特別操縦見習士官を志願し、知覧で6ヶ月の速成教育を受けてパイロットとなります。日曜日毎に富屋にやってきたが、無口でどこか寂しい人柄だったので、明るく接しました。光山さんは「僕は朝鮮人です」と言っていました。幼い時に父母とともに日本に来たのです。当時の日本には朝鮮人に対する差別意識を持った者も多かったので、余計に大事にして可愛がりました。知覧を卒業して各地の部隊を転々として、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」とハガキを送っていました。その光山さんが1945年5月の初め、「小母ちゃーん」と呼びながら、富屋に戻って来ます。トメさんはすぐに事情を察しました。光山さんのお母さんは前年の暮れに亡くなっていたとそうです。息子が日本でバカにされないように、必死で働いて学歴をつけさせたそうです。5月10日の夜、光山さんは「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。
「長いあいだありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。でも、おれは朝鮮人なんだ。長いあいだ、ほんとうに親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」
「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」
「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」
「まあ、光山さん、あんたが歌うの」
孤独な光山が歌を歌う姿は一度も見たことがありません。あぐらをかき、涙を隠すため、戦闘帽のひさしを下げて、びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていく
わたしを捨てて行くきみは
一里もいけず 足いたむ
1943年の朝鮮での特別志願兵の応募者は30万人以上、採用6,300人の50倍近くだったそうです。大戦中は24万2,341人の朝鮮人青年が軍人・軍属として戦い、約2万1,000人が靖国神社に祭られているそうです。なお、特攻隊員として出撃・散華した朝鮮人軍人は光山少尉を含め14名とのことです。
6月5日。翌日の6日は宮川三郎軍曹の誕生日です。トメさんは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に誕生日に控えた出撃のはなむけとしました。途中、空襲警報が鳴って防空壕に避難し、街の灯りも灯火管制のために消され、防空壕から出てきた後には、真っ暗な闇の中、小川の上を大きなゲンジボタルが飛び交っていました。
「小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。そうだ、このホタルだ。おれ、このホタルになって帰ってくるよ」と宮川さんは言います。
「ああ、帰っていらっしゃい(そうよ。宮川さん、ホタルのように光輝いて帰ってくるのよ)」とトメさんは答えます。
「9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ」と宮川さんは懐中電灯で自分の腕時計を照らしながら言います。
「わかった。そうしておくよ」とトメさんが答えます。
「おれが帰ってきたら、みんなで『同期の桜』を歌ってくれよ。それじゃ、小母ちゃん。お元気で」宮川さんの後ろ姿は暗い夜道に消えて行きました。
6月6日夜9時。表戸の隙間から1匹の大きなゲンジボタルが光りながら、店に入ってきました。
「お母さーん、宮川さんよ。宮川さんが帰ってきたのよ」
部屋の隅にいた兵士たちも集まって、ホタルを見上げ、「歌おう」と誰かが言い、肩を組み、涙でくしゃくしゃになりながら「同期の桜」を唄いました。
貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散らうとも
花の都の 靖国神社
春の小枝で 咲いて逢うよ
戦争が終わり、1946年に知覧飛行場で最後の特攻機が燃やされ、1955年9月に知覧飛行場の一角に観音像が完成し、1987年2月に知覧特攻平和会館が開館しました。
特攻機が燃やされた時には、近くに落ちていた棒杭を拾い、地面に立てて、「さ、これが今日からあの人たちのお墓の代わりだよ。たったひとつしかない命を投げ打って死んでいったんだよ。それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ」と娘さんたちに言いました。
観音像が出来ると毎日ガムやキャンデーを持って像の所へ行き、遊んでいる子どもたちを集めて、一緒に掃除をし、それから「はい、それでは観音様のお下がりをいただきましょう」と言って、ガムやキャンデーを配りました。こうすることによって、自分の死後も、この子どもたちの中から、観音像をお守りしてくれる人が育つだろうと考えたことです。
1992年4月22日夕刻、トメさんは90歳直前で一生を終えました。富屋は弔問客や取材陣でごった返した。通夜の夜、ようやく遺族が一息入れた所に、1匹のホタルが光る尾を引いてトメさんの柩のある部屋をスーッと横断していったそうです。
「見たか」
「見た」
「ホタルだったよな」
「そうだったよな」
4月の下旬には、まだホタルが飛びません。しかし、人々は確かに見たそうです。
それはホタルになった宮川さんが「小母ちゃん」を迎えに来たのか、それともトメさんがホタルとなって、息子たちのところへ飛んでいったのでしょうか。
もうすぐ、日本はホタルの季節を迎えます。