「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲「炎のファイター ~INOKI BOM-BA-YE~」は1977年に発売されたアントニオ猪木さんの入場曲です。原曲は元プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリさんの伝記映画「アリ・ザ・グレイテスト」の挿入曲「アリ・ボンバイエ(作曲;マイケル・マッサー)」です。
その後、猪木さんと対戦したアリさんから曲を贈られ、それをアレンジしたものです。
「ボンバイエ」とは、「Boma ye(ボマ・イェ)」(リンガラ語:“やっちまえ”程度の意味。中邑真輔の必殺技名でもある)が訛ったものだそうです。
アリさんがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンさんと戦った際の声援が由来のようです。
1977年にシングルレコード「アントニオ猪木のテーマ 炎のファイター/炎のファイター(パート2)」が発売。同年に「炎のファイター ~アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌:アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売されました。2006年に韓国のヒップホップ・グループSide-B(サイドビー)が「SB BOMBA YE」としてラップ風にカバー、2007年にDJ OZMAが同曲を「疾風迅雷 〜命BOM-BA-YE〜」として再カバーしています。
猪木さんの弟子で「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之選手は、オーケストレーション・バージョンを入場曲としています。
ちなみに、元妻の倍賞美津子さんの歌唱による歌詞つきのバージョン「いつも一緒に」がかつて発売されてもいます。
また高校野球の応援などでも使用されることが多いので、お馴染みだと思います。応援席と一体感が出るので一緒にアツい戦いを繰り広げたい球児にピッタリです。
モハメド・アリさんが2016年6月3日、米国アリゾナ州の病院でなくなりました。74歳でした。
1942年、ケンタッキー州ルイビルに生まれ、旧名はカシアス・クレイ。12歳の時に父親から誕生日にもらった自転車が盗まれ、「自転車ドロボウが見つかったらタダじゃおかない。きっとぶちのめしてやる」と泣き叫んでいたところにボクシングジムのトレーナーもしていた警官がボクシングを勧めたことがきっかけで、ボクシングジムに入門。8週間でアマチュアボクサーとしてデビューし、初戦を勝利。ケンタッキー州の大会で6度優勝。1959年から2年連続で全米大会で優勝を果たし、ローマ五輪のライト・ヘビー級代表の座を射止める。
1960年のローマオリンピックで金メダルを獲得。しかし、帰郷したケンタッキーで人種差別を受け、悔しさから金メダルを川に投げ捨てる。オリンピック後にプロデビュー。当時、アフリカ系アメリカ人が公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った公民権運動が盛り上がりを見せており、ネーション・オブ・イスラム(黒人のイスラム運動組織)に入信。リングネームをモハメド・アリに改め(1964年に本名も改名)、1975年にイスラム教スンナ派に改宗。
1964年に世界ヘビー級王座を獲得。1967年に自信の宗教の信条や政治的、哲学的な背景に基づく兵役拒否により、裁判で禁固5年と罰金1万ドルを科せられ、ヘビー級王座とボクサーライセンスが剥奪される。その後も信念を曲げずに戦い続け、4年後の1971年に最高裁判所で無罪を勝ち取る。
1971年にリングに復帰し、世界ヘビー級王座に挑戦するも敗北。1974年にジョージ・フォアマンさんに勝利し、王座に返り咲く。1976年には来日してアントニオ猪木さんと格闘技世界一決定戦を特別ルールで戦い、引き分ける。
1981年に引退。その後、パーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入る。2005年、米国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与され、また同年、生涯をかけた米国での公民権運動が評価され、ドイツのオットー・ハーン平和賞を受賞。
20世紀の米社会を代表する人物の1人でした。ご冥福をお祈りいたします。
「不可能とは、自らの力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉だ。
不可能とは、現状に甘んじるための言い訳にすぎない。
不可能とは、事実ですらなく、単なる先入観だ。
不可能とは、誰かに決めつけられることではない。
不可能とは、可能性だ。
不可能とは、通過点だ。
不可能なんて、ありえない。」