本名はヴィクトル・コンスタンチーノヴィチ・スタルヒン(Виктор Константинович Старухин, Viktor Konstantinovič Staruchin)。戦時中は「須田博(すたひろし)」に改名。沢村栄治さん、野口二郎さん、藤本英雄さんと並ぶプロ野球創成期のピッチャーで、NPB史上初の通算300勝を達成。また、日本プロ野球界初の外国生まれの選手でした。
そのスタルヒンさんが今年で生誕100年を迎え、今日(2016年6月7日)、ゆかりの北海道旭川市のスタルヒン球場で行われる北海道日本ハムファイターズ vs. 広島東洋カープの試合開始前に長女のナターシャさんによる始球式が行われます。
1916年、帝政ロシア時代にロマノフ王朝の将校・父コンスタンチンと母エレキドアの一人息子として生まれましたが、1917年に起きたロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、革命政府(共産主義政府)に追われ、ウラル山脈を越え、シベリアを横断し、国境を越えて当時、日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びました。1925年の9歳の時に日本に亡命し、旭川市へ渡り、日本では無国籍の「白系ロシア人」となりました。
少年時代は191cmの長身から剛速球を投げる「怪童」と呼ばれ、旧制・旭川中学校(現;北海道旭川東高等学校)に入学し、北海道大会では二年連続(1933年、1934年)で決勝に進むも、味方のエラー等により惜敗して、甲子園とは縁がありませんでした。
なお、父親の事件のため、学校の授業料や生活費すら、同級生らによるカンパに頼るほど生活に困窮するようになってしまい、大学進学をあきらめざるを得なかったそうです。
1934年11月(旧制中学三年生のとき)に、当時日米野球のため来日していた大リーグ選抜チームと対戦する全日本チームに引き抜かれそうになります(前年の日米野球で17戦全敗を喫し、その年も開始から5連敗)。ただし、文部省は「学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならない」と通達したため、主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成し、京都商業の沢村栄治さんを中退させたのと同様にスタルヒンさんを退学させてようとしましたが、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗しました。
旭川中を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒンさんにとっては苦渋の決断でしたが、家の経済事情に加え、亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還すると言われたこともあり、断われずに旭川中を中退しました。それはクラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったそうです。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、とのことです。
そして、1934年11月29日に埼玉県営大宮公園野球場で開催された同第17戦の八回から敗戦処理で2イニングを投げたのが、プロ野球選手としてのデビューでした。1935年2月には米国遠征に参加しますが、無国籍だったためビザが下りずにすぐには入国できず、ようやく入国が可能となったスタルヒンさんは水原茂さんに「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」と感想を漏らし、水原さんを呆れさせたという。
1936年、そのまま大日本東京野球倶楽部の後身である東京巨人軍(現; 読売ジャイアンツ)に入団、7月3日の大東京戦にリリーフ登板し、3イニングを無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献します。1937年にはノーヒットノーランを達成し、1938年から1943年まで続く6連覇に大きく貢献し、1939年に日本記録となるシーズン42勝で最多勝を獲得、MVPに輝きました。同年、プロ野球史上初の通算100勝を達成しており、165試合目での到達は現在も破られていない史上最速記録となっています。
スタルヒンさんは試合ではボールは良いものの、コントロールが悪く、ベテラン勢や先輩たちから「トウシロウ!」「アホ」「どこ見て放ってんだ!」と代わる代わる怒鳴られていました。スタルヒンさんは傷ついたり落ち込んだりし、涙を流しながら「このままじゃ怖くて投げられません」と訴え、目を腫らしながらマウンドに立ち続けたそうです。しかし、当時、巨人軍監督の藤本定義さんによって励まされ、猛練習によってコントロールを身に付けたそうです。
1939年には、日ソ間で大規模な軍事衝突(ノモンハン事件)が起こるなど、日本人のロシア人に対する感情が悪化し、1940年には日米開戦を前に野球は敵性スポーツとみなされ、球団名や野球用語の英語使用が禁止され、9月12日に「プレーボール」が「試合始め」「ゲームセット」を「試合終わり」「タイム」を「停止」と呼ぶことが決まりました。
やがてスタルヒンさんにも圧力がかかり、4日後の16日からスタルヒン改め「須田博」としてプレーすることになりました。1944年には日本はソビエト連邦と中立条約を結んでおり、スタルヒンさんは白系ロシア人であるにもかかわらず「敵性人種」として連行され、多くの交戦国や中立国の在留外交官等と同様に軽井沢で軟禁されてしまいました。また、無国籍者だったため徴兵されることはありませんでしたが、球界から追放されてしまいました。
1946年にプロ野球が復活し、名前を元に戻し、スタルヒンさんも復帰しますが、巨人軍の誘いを断って当時パシフィック監督の藤本定義さんと再会し、パシフィックに復帰します。同年10月に史上初の通算200勝を達成しました。1948年に藤本さんが金星スターズの監督に就任すると、スタルヒンさんも金星に移籍します。1949年には27勝を挙げて9年ぶりに最多勝利のタイトルを獲得します。1954年に高橋ユニオンズに移籍しますが、この時は藤本さんと一緒ではなく、藤本さんに「高橋は契約金をくれる。もう長くはできないだろうからもらっておけ」と勧められたからでした。
1955年は現役最終球団のトンボユニオンズで9月4日に史上初の通算300勝を達成しましたが、後になって1939年の記録を見直されたところ、勝ち星ではない試合が2試合あったということで、40勝ということになってしまいました。そして、通算301勝でユニホームを脱ぎました。
ところが、1961年に西鉄ライオンズの稲尾和久さんがプロ野球新記録のシーズン42勝を挙げると、スタルヒンさんの記録が改めてクローズアップされた。議論や精査の結果、1963年になって「当時の記録員の決定を変えるべきではなかった」という裁定が下り、40勝から42勝に戻されました。
スタルヒンさんの記録は稲尾さんと並ぶプロ野球記録となり、通算勝利も303勝となりました。しかし、このときのスタルヒンさんのコメントはありません。なぜならば、この時にスタルヒンさんはすでにこの世にいませんでした。自分の通算勝ち数を知らないまま、1957年1月に乗用車を運転中に電車と衝突して亡くなりました。40歳でした。
学校帰りにタンポポを摘んで店のテーブルの牛乳瓶に飾ったり、女子と仲良く鬼ごっこで遊ぶこともあるなど優しい性格だった少年は、時代・社会や周囲に翻弄され続けた人生だったと思います。
戦争で野球が出来なくなり、名前も改名させられたにも関わらず、一生好きな野球にこだわり続けた生きざま。
今の日本人にないたくましさ、見習うべき辛抱強さを持っていた、素晴らしい選手です。北海道の大地が生んだ英雄でしょう。