鳥取市気高町酒津(旧;気高町酒津)の酒津漁港の北東400mの沖合にある、凝灰角礫岩でできた複数の岩礁からなる、高級魚のキジハタの放流実験が行われている「エボシ岩(烏帽子岩/烏帽子島)」のことではありません。
湘南を歌った楽曲のなかに数多く登場する、茅ヶ崎のシンボルとも言える「エボシ岩」。
サザンオールスターズのヒット曲「チャコの海岸物語」「HOTEL PACIFIC」「夜風のオン・ザ・ビーチ」などの歌詞にも歌われている、もしかしますと日本で一番有名な岩かも知れません。
チャコの海岸物語
♫エボシ岩が遠くに見える
涙あふれてかすんでいる
HOTEL PACIFIC
♫エボシ岩を見つめながら
夜霧にむせぶシャトー
夜風のオン・ザ・ビーチ
♫まるでエボシ岩に居るような
揺れる彼女の胸にすがって
東西約600m、南北約400mにわたる複数の岩からなり、高低の岩が海中にも存在しており、凝灰質砂岩を主とする新第三紀の池子層からなり、その最大の岩礁です。どちらかというと、日本最南端の島「沖ノ鳥島(東京都小笠原村)」のような感じでしょう(沖ノ鳥島はサンゴ礁から成っていますが)。
正式名称は「うば島(姥島)」と言い、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6mで、形が奈良時代から江戸時代まで広く使われた、成人男子がかぶった袋状のかぶり物を「えぼし(烏帽子)」と言い、その形のように見えることから、そう呼ばれています。
地層的には約1200万年前とされ、砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものだそうです。
江戸時代には対岸にあった「相州炮術調練場」の大筒稽古(いわゆる大砲の訓練)において標的となることがあり、太平洋戦争中は旧日本海軍の横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となり、1945年9月2日に連合国に接収され、1952年7月26日~1954年4月13日の間、対岸の辻堂海岸一帯が在日米海軍辻堂演習場となり、海上演習場として海岸からの直接射撃の目標とされていました。
1953年10月に朝鮮戦争が停戦となり、エボシ岩への射撃訓練が終了。1954年4月13日に日米政府間協定を改訂し、エボシ岩を標的として使用することを止め、地域住民からの返還運動もあり、1959年6月25日に本演習場は接収解除、使用解除され日本に返還された。
戦争前はエボシ岩の先端がもう少し先に延びた形をしていたそうですが、このために先端が欠けて現在の姿となったそうです。
エボシ岩周辺は昔から絶好の漁場となっており、現在でも茅ヶ崎漁港から釣り人のための渡し舟が出ています。
時代の流れが違っていれば、もしかするとエボシ岩を見ることはできず、また、近くに行けられる状態になっていなかったかもしれません。茅ケ崎市役所本庁舎2階屋上庭園には、石造りのエボシ岩のモニュメントがあり、前の昔の形が見られるそうです。また今度(っていつ?)にでも行ってみたいと思います。
ちなみに、香川県の小豆島にある「渓谷寒霞渓」の「表十二景」と長野県松本市の山の中(標高1621m)にもエボシ岩があります。またいつの日にか(っていつ?)にでも行ってみたいと思います。
湘南を歌った楽曲のなかに数多く登場する、茅ヶ崎のシンボルとも言える「エボシ岩」。
サザンオールスターズのヒット曲「チャコの海岸物語」「HOTEL PACIFIC」「夜風のオン・ザ・ビーチ」などの歌詞にも歌われている、もしかしますと日本で一番有名な岩かも知れません。
チャコの海岸物語
♫エボシ岩が遠くに見える
涙あふれてかすんでいる
HOTEL PACIFIC
♫エボシ岩を見つめながら
夜霧にむせぶシャトー
夜風のオン・ザ・ビーチ
♫まるでエボシ岩に居るような
揺れる彼女の胸にすがって
東西約600m、南北約400mにわたる複数の岩からなり、高低の岩が海中にも存在しており、凝灰質砂岩を主とする新第三紀の池子層からなり、その最大の岩礁です。どちらかというと、日本最南端の島「沖ノ鳥島(東京都小笠原村)」のような感じでしょう(沖ノ鳥島はサンゴ礁から成っていますが)。
正式名称は「うば島(姥島)」と言い、茅ヶ崎海岸の沖合約1.4kmにあり、高さは約14.6mで、形が奈良時代から江戸時代まで広く使われた、成人男子がかぶった袋状のかぶり物を「えぼし(烏帽子)」と言い、その形のように見えることから、そう呼ばれています。
地層的には約1200万年前とされ、砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものだそうです。
江戸時代には対岸にあった「相州炮術調練場」の大筒稽古(いわゆる大砲の訓練)において標的となることがあり、太平洋戦争中は旧日本海軍の横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となり、1945年9月2日に連合国に接収され、1952年7月26日~1954年4月13日の間、対岸の辻堂海岸一帯が在日米海軍辻堂演習場となり、海上演習場として海岸からの直接射撃の目標とされていました。
1953年10月に朝鮮戦争が停戦となり、エボシ岩への射撃訓練が終了。1954年4月13日に日米政府間協定を改訂し、エボシ岩を標的として使用することを止め、地域住民からの返還運動もあり、1959年6月25日に本演習場は接収解除、使用解除され日本に返還された。
戦争前はエボシ岩の先端がもう少し先に延びた形をしていたそうですが、このために先端が欠けて現在の姿となったそうです。
エボシ岩周辺は昔から絶好の漁場となっており、現在でも茅ヶ崎漁港から釣り人のための渡し舟が出ています。
時代の流れが違っていれば、もしかするとエボシ岩を見ることはできず、また、近くに行けられる状態になっていなかったかもしれません。茅ケ崎市役所本庁舎2階屋上庭園には、石造りのエボシ岩のモニュメントがあり、前の昔の形が見られるそうです。また今度(っていつ?)にでも行ってみたいと思います。
ちなみに、香川県の小豆島にある「渓谷寒霞渓」の「表十二景」と長野県松本市の山の中(標高1621m)にもエボシ岩があります。またいつの日にか(っていつ?)にでも行ってみたいと思います。
鳥取市気高町酒津の「エボシ岩(烏帽子岩/烏帽子島)」には、たぶん、行かないと思いますが。
なお、サザンの「希望の轍」の歌詞中に登場する「エボシライン」は、エボシ岩を望む国道134号を唄っています。
希望の轍
♫遠く遠く離れゆくエボシライン
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さまにとって、今日という日が昨日よりも特別ないい日でありますようにお祈りいたしております。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。
なお、サザンの「希望の轍」の歌詞中に登場する「エボシライン」は、エボシ岩を望む国道134号を唄っています。
希望の轍
♫遠く遠く離れゆくエボシライン
本日も、拙文最後までお読みいただきありがとうございます。
皆さまにとって、今日という日が昨日よりも特別ないい日でありますようにお祈りいたしております。
また、明日、ここで、お会いしましょう。それではごめんください。