八重山商工高といえば沖縄県の離島にある高校として、2006年第78回選抜高等学校野球大会に初出場し、大会では一回戦で先発の大嶺祐太選手(現;千葉ロッテマリーンズ)の好投もあり、日本全国の離島勢としても甲子園初勝利を挙げました。また、2006年第88回全国高等学校野球選手権大会沖縄県大会で優勝し、離島勢初の夏の甲子園出場も果たし、一回戦・二回戦を勝ち、大会ベスト16に進出しています。
その八重山商工高を率いた伊志嶺監督が今年の夏で勇退します。
伊志嶺監督は石垣島の沖縄県立八重山農林高校から本島の沖縄大学に進み、準硬式野球で全国制覇したのですが、4年生二学期で中退し、1978年から八重山商工高野球部監督に就任しました。
この間、結婚し、長男も生まれましたが「好きな野球ができる時間をひねり出せる」仕事だけを選んでいたため、仕事は一定せず、臨時工、スポーツ店、運送業、内装業、生花店など都合が悪くなると2~3年で転々としたそうです。特にスポーツ用品店を経営した1982年当時には「八重山の人間はシャイでね。商品を売ったものの代金回収となるとなかなか言い出せなくって。自分の仕事に代償を求めないというか」。そして「野球がやりたいのに経済的理由でできないのはかわいそう」と店の売り上げを野球部の用具代として提供したこともあり、その結果破たんし、野球にのめり込む生活は結婚生活にピリオドを打ち、長男を失うとともに、結果を出すことが出来ず1983年に引退します。
そして、再び野球へ戻るきっかけになったのが1992年です。この年に石垣市とゴミ収集業者としての雇用契約を結び、担当地区を回ります。朝8時半から始めても午後1時には仕事が終わるため、その他の時間は野球が出来ると言うことです。
そして、1994年には八島小の少年野球チーム「八島マリンズ」の監督に就き、実戦経験を増やすために他チームの監督らと一緒に島内8チームによるリーグを作りました。年間試合数は約30から100試合近くまでに増え、7年後には島の少年野球チームとして初めて全国制覇を成し遂げます。
また、小学生の受け皿として中学硬式野球ポニーリーグを創設し、「八重山ポニーズ」の監督となりチームを世界3位に導いた。
その後、石垣市の野球部監督派遣事業に伴い2003年に八重山商工高野球部への復帰を持ちかけられ、「お金はいらない。野球に携われるだけでいい」と言い、復帰しています。
大嶺選手らを小学生時代から指導していた世代でしたが、選手のほとんどが同じ石垣島育ちの幼馴染で競争意識が無く練習を休んだり、サボったりとのんびりした性格もあり、当初は勝ちきれずにいましたが、徹底したスパルタ指導で選手たちを鍛え上げ春夏連続での甲子園へと導きました。しかし、その年以降八重山商工高は甲子園から遠ざかっています。
30歳で再婚し、10代、20代は野球だけ、30代も好きな野球に打ち込んだが、2度目の結婚で自分の気持ちを殺すことを覚え、金もうけをして、いい生活をして、家も建てたのですが、打ち込み過ぎたのが一因となって35歳で離婚してしまいます。
どうして、ここまで野球にのめり込むのかを友人はこう言っているそうです。
「長男の死が彼を変えた。島の子供たちのために何かをしようという気持ちが、より強くなった」
それは1995年に長男が20歳という若さで他界したことが一因のようです。音楽の道を目指していた息子に「プロデビューが先か、おれたちの甲子園が先か競争しよう」と言い合って来たそうです。息子に対して父親らしいことが出来たのではないかと後悔があり、野球での教え子たちが息子になったのではないかと。
二度目の監督就任を機に大好きな酒をやめ、修行僧のように頭もそり込んだ。教え子に耐えることの大切さを伝えるために、練習着に「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と縫い込んだ。
野球に支えられてきた62年間。仕事を転々とした時期は草野球に熱中し、八重山商工高監督就任時、部員が2人しかいなくなった時もグラウンドに立ち続けました。今も毎朝4時半には誰よりも早くグラウンドに立っているそうです。勇退が決まってから、ここで物思いにふける時間が増えているそうです。
「小さいことの積み重ね。頑張っていたから甲子園に行けた。野球の神様は見ていてくれた」
二回戦は春季県大会優勝の那覇高との対戦です。
集大成の夏。もう一度、南の島からあの大舞台へ。名将は息子たちと一緒に最後の夢を掴みに行きます。