第98回全国高校野球選手権大会は早くも6月18日に全国のトップを切って沖縄県大会が梅雨明けした夏空の下で開幕しています。
昨日、6月23日は沖縄県民にとって忘れることのできない特別な一日です。一般住民が巻き込まれ、20万人あまりの尊い命と財産、文化、自然がことごとく奪われた沖縄戦は太平洋戦争で、唯一日本国内の一般住民が地上戦を体験したのです。そのうち、半数近くの9万4000人あまりの戦死者が一般住民です。もちろん子どももいます。この沖縄戦で沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日(1945年6月23日)を日本軍の組織的戦闘が終結したとして、琉球政府及び沖縄県が「慰霊の日」と定めました。本土復帰前はこの日を休日と定め、各行政機関、学校や企業に定着していましたが、1972年の本土復帰後は休日ではなくなりましたが、1991年に地方自治法が改正され、「慰霊の日」を休日と定める県条例が公布された事によって、改めて休日と定められています。
沖縄大会は毎年、この慰霊の日(6月23日)を挟んで行われています。正午には黙とうを捧げ、沖縄戦で亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、恒久平和の誓いを新たにし、平和な世の中で野球に打ち込めることに感謝の気持ちを持つようにしています。
さて、昨年は全国高校野球が始まって100年という節目の年でした。そして、今年は1945年に戦争が終わり、中断していた全国大会が1946年に復活してから70年という節目になる年になります。
敗戦が告げられた翌日の1945年8月16日。中断前の中等学校野球の大会副委員長だった佐伯達夫さん(後の日本高校野球連盟会長)は朝日新聞大阪本社を訪れて「野球大会を復活しようじゃないですか」と言いました。しかし、その時に応対した朝日新聞社大阪本社元運動部長の渡辺文吉さんは「まだ考えも及ばぬことだった」と言っています。
選手権大会は文部省次官通達で1941年7月に中止されていました。1945年10月。元運動部記者の久保田高行さんは日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)幹部から「野球ほどデモクラチックなスポーツはない。野球を行うのはもちろん、観ることにも非常にデモクラシーの精神を与えるものであるから、是非復活しなければならん」と助言されます。
そして、11月1日に戦時中に解体されていた朝日新聞運動部が復活し、各地の中等学校野球部の現状と大会への参加意欲を調べます。「野球用具は極度に不足」「食糧事情も最悪」としながら、多くの学校が来年大会を開くなら、必ず参加すると答えたそうです。
そして、1945年8月15日からの一年後の1946年8月15日。米軍が接収中だった阪神甲子園球場に代わり、西宮球場で夏の全国大会は再開されます。快晴の夏空の下、19校が参加した開会式です。
開会式で式辞を述べたのはGHQのポール・ラッシュ中佐です。戦前は立教大教授として野球やアメフットの普及に尽力し、戦中は米陸軍日本語学校で対日諜報工作員を育成し、戦後は戦犯や公職追放者を決めるための情報収集を担当していました。開会式ではラッシュ中佐からは主将たちに、真新しいボールを一つずつ手渡したそうです。
岩手・一関中(現; 一関一高)のピッチャーだった田村泰延さんはその光景を目にし、8つ年上だった阿部正さんを思い出したそうです。「生きていたら、喜んだだろうな」阿部さんは甲子園出場を確実視されながら1941年の大会中止で夢を果たせず、野球部が廃部になった1942年に顧問と一緒に野球用具を校内の銃器庫に隠し、戦地へ赴きました。「「また野球をする」という強い意志があったのだろう」と田村さんは思ったそうです。しかし、1943年9月に乗船していた船が台湾沖で撃沈され、帰らぬ人となってしまいました。
戦後、後輩たちは隠されたグラブやボールを見つけ「あたかもダイヤでも見出したように」と喜んだそうです。
今の日本には戦争がない平和な日々が続いていますが、日本では大震災や大雨などが発生しています。それでも、その都度困難を乗り越えて、歴史を紡いできています。
今年は4月に熊本で震度7が二回発生するという大災害が発生しました。また、今週は長崎、熊本などで大雨による被害も発生しています。各地で復旧作業が続く中で、高校野球もどうやって大会を開催するか、関係者による努力が続いています。
例年にも増して、平和を誓い、安全に野球ができることに感謝する夏にしなければなりませんよね。
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まっくろくろすけ
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