戦時中の1943年(昭和18年)10月1日。当時の東條内閣は在学徴集延期臨時特例(昭和18年勅令第755号)を公布しました。これは、大学・高専在学生の徴兵適齢(20歳)以上の者のうち、理科系と教員養成系以外の者の徴兵延期制度を撤廃して軍隊に入隊させた、「学徒出陣」と言われる措置です。東京六大学の野球部選手にも例外なく学徒出陣の命令が下りました。
現在、戦争などで戦死した野球選手の霊を慰める墓標は2種類あります。プロ選手への「鎮魂の碑」は1981年に建立されました。中等・大学・社会人のアマチュア選手に対しては「戦没野球人モニュメント」は2005年に設置されました。いずれも東京ドーム敷地内にあり、野球殿堂博物館が管理しています。
近年、「モニュメント」から「碑」に移った方の中に、田中雅治さんがいます。
1943年に当時の朝日軍(後の松竹=消滅)でプレーしたことが確認されたからです。
田中さんが歩んだ足跡は、戦時仲、野球に青春をかけた心情、生への渇望がよくわかります。
田中さんは1939年、1940年と全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園大会)を連覇した海草中のセカンドを守っていました。1939年は嶋清一さんが全5試合完封の偉業で初優勝、1940年は真田重蔵さん(阪神タイガースなど)の後を受け、ピッチャーとしても活躍し、連覇に貢献しました。
3連覇に挑むはずの1941年は主将でした。和歌山大会前の7月12日に主催の朝日新聞から突然の大会中止が発表されました。文部省が戦時に備えた輸送力確保を理由に全国的な運動競技大会の禁止を通達してきたのでした。大会前合宿中に聞かされ、全員が涙にくれました。そして、この年の12月8日に日本は太平洋戦争に突入するのです。
田中さんは嶋さんの後を追って1942年に明治大に進み、キャッチャーとなりました。嶋さんが「ガンジーに受けてもらいたい」と要望したからだそうです。「ガンジー」とは、名前の音読みから呼ばれた、田中さんの愛称です。田中さん自身も非暴力・不服従の「インド独立の父」マハトマ・ガンジーさんのように、優しく強い心を持つ青年でした。
当時、明治中野球部にいた別府隆彦さん(後の明治大監督・総監督)は嶋さんや田中さんが「よく練習を手伝ってくれた」と記憶しています。「嶋さんは田中さんをガンジーガンジーって言ってね。田中さんを座らせてバッティングピッチャーをやってくれました。あんな時期でしたが、やっぱり野球が好きだったんでしょうね」と語っています。
1943年3月に文部省が「戦時学徒体育訓練実施要項」を発表。当時、敵国だった米国発祥の野球は適切な球技から除外されてしまいます。4月には東京六大学野球も中止になります。
明治大では学徒出陣のため、12月に繰り上げ卒業となる上級生を送る紅白戦が9月末にありました。海草中出身の嶋さん、古角俊郎さん、竹尻太次さん、宮崎繁一さん、田中さんの5人で記念写真を撮って別れました。嶋さんや古角さんは家族との別れのために故郷の和歌山に帰りました。嶋さんは交際中の女性との結婚を控えていました。下級生は繰り上げ卒業ではなく、休学届を出すことになりました。
学徒出陣で12月には入隊しなくてはならない、短い時間ですが、田中はさん帰郷しませんでした。東京から大阪まで帰り、朝日軍の一員となった。海草中の後輩、真田さんが在籍していた関係もあったそうです。出征までのわずかな期間も野球をしたかったのです。当時、学生野球は中止となっていましたが、プロ野球は入隊で選手不足のなか、活動を続けていました。
当時の日本野球連盟関西支局長・小島善平さんの日記に「10月1日(金) 晴 朝日、登録未発表の田中出る。鈴木が許可したから出したとの事」と記録があるそうです。鈴木さんとは当時の連盟理事長、元・朝日軍球団代表だった方です。急きょの入団、選手登録だったようです。背番号2。南海戦で初出場を果たしました。
そして、最後の公式戦出場は11月3日の巨人戦でした。プロ野球で過ごしたのはわずか一ヶ月ほどでした。
出場16試合。主にライトを守り、キャッチャーでも1試合の出場記録が残っています。打順は主に七番打者で先発に名を連ねています。48打数10安打、打率.208でした。
そして、12月1日に陸軍に入隊しました。
誰もが死を覚悟しながら懸命に生きていた時代です。嶋さんは11月に結婚式をあげ、新婚生活を送りました。田中さんは命ある限り、最後まで野球をやりたかったのでしょう。
田中さんの記録は1944年のプロ野球にありません。恐らく戦地に赴いていたのだと思われます。そして、夏季リーグを最後にプロ野球も休止となった。
ただ、終戦を迎えることになる1945年の1月1日から阪神甲子園球場と西宮球場で阪神、阪急軍、朝日軍、産業軍が自主的に行った関西正月大会(非公式戦)に出場していたそうです。これは大会全9試合を観戦、記録していた学生のスコアブックに記載が残っているそうです。おそらく、一時復員していたのだと思われます。ちなみに、大会最終日の1月5日は「プロ野球が死んだ日」と呼ばれています。
田中さんの戦死の詳細は分からないままだそうです。戦没年月日は「昭和19年8月19日、午前4時30分ごろ」とあるそうですが、それが事実だとすれば、昭和20年の正月大会に出場していたのは、誰だったのでしょうか。
ある程度、自分の運命が分かっている人生。せめて自由なうちは好きなことをやっていたい。また、それを実現する意志。
自分には同じようなことが出来るのか。