「宣誓。
平成が終わり、令和という新しい時代を迎えました。
平成の歴史を振り返ると、決して平坦な道のりではありませんでした。
夏の甲子園も多くの困難を乗り越え、偉大な先輩方がつないでくれたおかげで、
101回という新たなスタートを切ることができました。
そして、多くの人に支えられ、大好きな野球ができることに感謝し、
たくさんの思いが込められ、重く輝くバトンを託された私たちは、
この101回目の大会を記憶に残る大会にすることを誓います。
令和元年8月6日
選手代表 誉高校主将 林山侑樹」
暑い夏の熱い戦いが幕を開けました。そして、令和で初めてであり、101回目の新時代の甲子園の幕開けです。今年はどんな試合(ドラマ)があるのでしょうか。
■第1試合
八戸学院光星高は初回、下山選手の満塁ホームランで先制。5-0で迎えた6回表には、武岡選手のタイムリー3ベースヒットと近藤選手の犠牲フライでリードを広げる。投げては先発・後藤選手と山田選手の完封リレー。敗れた誉高は甲子園の雰囲気に呑まれたか、投打ともに振るわず、初出場甲子園初勝利とはなりませんでした。
八戸学院光星400102020|9
誉 000000000|0
■第2試合
神村学園高は初回、田中大選手のスクイズなどで3点を先制。続く2回裏には桑原選手と田中大選手の連続タイムリーヒットで、リードを広げた。投げては先発・田中瞬選手が9回5安打2失点の好投。敗れた佐賀北高は序盤での大量失点が響きました。神村学園高は出場3大会連続の選手権初戦突破です。
佐賀北 000011000|2
神村学園32000020x|7
■第3試合
高岡商業高は初回に1点を先制して迎えた2回表、森田選手の2ランホームランで追加点。その後、同点とされた直後の延長10回表に、森田選手のタイムリー3ベースヒットで、勝ち越しに成功。敗れた石見智翠館高は9回に追いつく粘りを見せるも、チャンスにあと1本が出ませんでした。
高岡商 1200001002|6
石見智翠館0000010120|4(延長10回)
激戦区の愛知大会を制し、春夏とおして甲子園初出場となった誉高。硬式野球部を率いているのが、2006年から指揮を執る矢幡真也監督です。
元々というよりも、本業は愛知県犬山市にある電器店の社長です。街の小さな電器屋さんの矢幡監督にどうして声がかかったかというと、元々、誉高がお客さんだったそうです。エアコンを納入したり教室の蛍光灯を配達したりと出入りするうちに、当時の事務局長と親しくなり、ある日、事務局長から「うちで野球を教えてくれ」と頼まれたのがきっかけです。犬山南高でコーチとして指導する様子を見ていたそうです。「自分は勝負にこだわらず、楽しくやりたい方。監督ができるのか」と不安に思いながらも引き受けました。
矢幡監督は元高校球児。しかも、1990年の第72回全国高等学校野球選手権岐阜大会の美濃加茂高で左のエースとしてマウンドに立ち、見事優勝。甲子園にも出場していました(一回戦で山口・宇部商業高に2-3で敗れました)。大学卒業後は社会人野球で約3年間プレーして、引退後は地元でハローワークにかよったこともありました。工場で働いた後、結婚した奥さんの実家が営む家電製品販売店を継ぐことになったのです。
ということで、電器店社長と高校野球監督の二刀流です。
就任当時の部員は7人でした。試合で相手チームに暴言を吐くなど、やんちゃな選手が多く、部員集めで中学生の野球チームをまわっても、「お前のところに行きたがる子はいない」と相手にされなかったり、秋季大会の地区予選を選手のけがで途中辞退したこともあったそうです。 それでも、強豪校出身のコーチらの紹介で人脈を広げ、部員が少しずつ増え、それに伴って、チームも強くなり、地区予選突破、県大会で1勝を挙げるなど結果が出始めます。そして、2014年の秋季県大会で初優勝を飾ります。
誉高の練習場にある電気設備は、ほとんど矢幡監督が取り付けたそうで、たまに部員がいると手伝わせてたりして、社会勉強させながら、「こういうこと、お父さんになったらやらないかんぞ」と言って、指導している(?)そうです。また、朝と夕方の練習の合間にエアコンや冷蔵庫を配達し、土日の練習試合の時にも、「きょう昼からエアコン取り付けに行くのですみません」とか言って、よく抜けたりしながら、指導を続けてきました。
そして、この夏に激戦区の愛知大会でノーシードから勝ち上がり、ついに頂点に立ちました。
監督として29年ぶりに甲子園に戻ってきた矢幡監督。甲子園初勝利とはなりませんでしたが、選手たちには「ありきたりですが『ありがとう』しかないですね」と感謝の言葉を述べていました。