野球小僧

伊藤智仁 / 元;東京ヤクルトスワローズ

江夏豊さん、江川卓さん、松坂大輔選手、大谷翔平選手・・・多くのピッチャーがプロ野球のマウンドで投げて来ましたが、私の中で一番の記憶に残るピッチャーが、元東京ヤクルトスワローズの伊藤智仁さんでした。

1992年のドラフト1位でヤクルトスワローズに入団した伊藤智仁さんは、選手、コーチを通じて25年在籍し、2017年限りで退団し、今年からはプロ野球の独立リーグであるBCリーグ(ベースボール・チャレンジ・リーグ)の富山GRNサンダーバーズ監督に就任します。

プロ生活11年間(実働7年間)で127試合37勝27敗25Sという数字が、伊藤さんのプロでの成績です。伊藤さん以上に成績のいいピッチャーはたくさんいます。それでも、いまだにあのピッチングスタイルを忘れることはありません。「記録よりも記憶」と言われるピッチャーの一人です。

京都市立中京中学校、花園高を卒業後、地元の三菱自動車京都に入社。1992年のバルセロナオリンピック野球日本代表に選出され、高速スライダーを武器に1大会27奪三振のギネス記録を作るなど、日本の銅メダル獲得に貢献します。

この年のドラフト会議はなんと言っても、あの松井秀喜さんが超目玉です。ドラフト前には「10年に1人の逸材、松井秀喜を!」と推すスカウト陣に対して、「10年に1人ならほかにもいるだろう。ならばピッチャーを獲ってほしい」と、逆らったのがスワローズの監督に就任して4年目だった野村克也さんです。

「その前年、彼は(バルセロナ)オリンピックに出ていたんでしょ? でも、全然知らなかった。高校野球は見ていたから、むしろ松井秀喜のことは知っていたけど。ただ、スカウトと世間の評価がすごく高いから、反対意見もあったけれどもドラフトのときには“ならば、松井ではなく、伊藤智仁を指名しましょう”と提案したけど、大正解だったね(笑)」

ドラフト会議ではヤクルトスワローズ、広島東洋カープ、オリックスブルーウェーブが1位指名、抽選の結果、スワローズが交渉権を獲得し入団契約を交わします。野村さんの期待は大きく、そして、その実力も野村さんの想像以上でした。百戦錬磨の名将が「長いプロ野球人生において、一、二を争うスライダーの持ち主」と感嘆するほどの潜在能力を誇る逸材に興奮しないはずがあり得ません。これまで、こんな新人ピッチャーを見たことはない、いや、長いプロ野球人生においても、ここまで完成されたピッチャーに出会ったことがない・・・キャンプが始まってわずか数日ではあったが、野村さんは「屈指の名投手が入団した」と確信していました。

野村さんは自ら右打席に立ち、マウンド上の新人右腕が一球を投じるたびに、「パーフェクト!」「バッチリ!」と、称賛の言葉を並び立て、そして、何度も何度も、大きく首を横に振りながら「信じられない!」と口にします。そして、野村は自ら「架空実況中継」を始めるほどだったそうです。「……さぁ、9回裏二死満塁、カウントはフルカウント。ピッチャー伊藤、投げました。見事な球だ。ストライク。三振!」あまりにも無邪気に大騒ぎをし、大げさに感嘆している前年のセ・リーグ優勝監督。報道陣たちの中には、これを「ノムさん流パフォーマンス」と受け止めた者もいたそうです。しかし、本心から感嘆していたとのことです。

「初めてキャンプで彼のボールを見た。普通はストレートに惚れるものなんです。なぜなら、『ストレートの魅力』イコール『ピッチャーの魅力』だから。でも、この伊藤智(トモ)の場合は違った。『スライダーの魅力』なの。初めて見てすぐに“すごいスライダーを投げるな”と驚いた。同時に、“このスライダーならすぐにプロで通用するな”とも思った。それが、彼に対する最初の印象だね」

開幕は体調不良のため、一軍こそならなかったものの、4月20日にプロ初登板初先発で7回を10奪三振2失点。150km/hを超えるストレートと真横に滑るような高速スライダーを武器に投球回を上回る三振を奪い、初勝利を挙げると、7月までに7勝(2敗)をマークし、防御率は驚異の0.91という数字をたたき出します。特に6月は5試合に先発。49回2/3を投げて、その右腕からは実に694球も投じられます。キャッチャーの古田敦也さんが当時のことをこう語っています。

「彼の高速スライダーは本当によく曲がりました。ほかの投手と違ってトモの場合は明らかに腕の振りが違いました。大魔神・佐々木(主浩)や野茂(英雄)の場合は頭の上でパンと手首を返してからひじが落ちてくる。でも、トモの場合は打者の手元に近づいているのに、まだ投げない。イチ、ニ、サンの後にさらにニュッとひと伸びがある。これはかなり打ちづらいですよ」

「直角に曲がる」と称されたこの高速スライダーは瞬く間にセ・リーグ、いや日本球界の注目の的となり、中日ドラゴンズの落合博満さんや立浪和義さん、広島東洋カープの前田智徳さんら各チームの主力が手も足も出せずにいました。当時の伊藤さんは、圧倒的存在感をたたえたまま、マウンド上に仁王立ちしていました。そして、7月4日の読売ジャイアンツ戦で137球を投じた伊藤さんでしたが、この日から約3年間、伊藤さんを一軍のマウンド上で観ることはありませんでした。この日の試合中に右ひじを負傷してしまいました。ケガをした伊藤さんは当時はこのように思っていました。

「アマチュア時代にひじを故障したことはなかったので不安はあったけど、“すぐに治るやろ”と、シーズン後半の復帰に向けてリハビリに励んでいました」

結局、この年の復帰はかなわなかったものの、シーズン序盤の大切な時期に7勝2敗、防御率0.91という驚異的な記録が評価され、チーム優勝に貢献したこともあり、新人王に輝きました。もちろん、あの松井さんを抑えての受賞でした。実働はわずか3カ月弱でありながら、前半戦に見せた鮮烈な印象は見る者の残像となって強烈に焼きついていたのでしょう。

しかし、右ヒジが徐々に回復していた2年目の春キャンプではさらに右肩を故障。結局、2シーズンを棒に振りようやく1996年に一軍復帰、1997年にはリリーフピッチャーとして、チームの日本一に貢献し、カムバック賞も獲得します。それでも、その後の伊藤さんのプロ野球人生は苦難の連続でした。

1999年には血行障害のために右肩を手術しました。右腕は常に冷たく、血圧測定ではまさかの「0」が記録されていたというほど重症でした。そして、2001年にも再び右肩を手術。手術をしても完治の保証は何もなかった。それでも、「何もしないよりはまし」と一縷の望みに賭けます。9年間で3度の手術です。

たぐいまれな可動域を誇っていた右肩だからこそ生み出された高速スライダーは、その半面、故障を誘発しやすい、もろ刃の件であったのも事実でした。

2002年オフに戦力外通告を受けましたが、現役続行にこだわり、チームメイトの支えもあって、球団は再契約を締結しましたが、この時の年俸8000万円から1000万円への大幅減額には驚きました。しかし、2003年も一軍はおろか二軍での登板すらありませんでした。懸命のリハビリでも、右肩は手の施しようがなかったそうです。シーズンオフの二軍チームによるオープン戦で最後のマウンドに立ったときの球速はわずか109km/hだったそうです。150km/hを超える豪速球も、バッターをきりきり舞いさせた高速スライダーもありませんでした。

私たちは伊藤さんの鮮烈なデビュー時を知っているファンは「悲運のエース」と呼ぶことがあります。あれだけの才能がありながらも、度重なるケガに苦しみ、本来の才能をすべて発揮することなく、ユニホームを脱いだからなのですが。

古田さんは

「よく、『記録よりも記憶に残る』と言いますけど、まさに、彼はそんなピッチャーでしたね。僕はオールスターや日米野球でたいていのいいピッチャーのボールを受けました。その中で、スライダーに関して言えば伊藤智(トモ)のスライダーが1番でした。スライダーというのは、プロの投手ならばほぼ全員が投げる球種です。その中で1番ですから。何しろ、100イニング以上も投げて、防御率0点台というのは、相当レベルの高い話なんでね」

野村さんは

「彼は本当にピッチャーらしいピッチャーやったな。手足が長くてしなやかで。まるでピッチャーをやるために生まれてきたような身体だった。それに男気もあったし、“打てるものなら、打ってみろ!”という強気のピッチング。“地球は自分を中心に回っている”という一流ピッチャー独特のうぬぼれもあった。長い間野球と関わってきたけど、あんなピッチャーはなかなか出てくるものじゃないよ」

でも、伊藤さんは雑誌のインタビューでこんなことを言っています。

「僕に関する取材は、ほぼ『1993年』についてか、『ケガとリハビリ』についてか、そのどちらかだけですからね(笑)。世間の人が興味を持っているのが、この2点ということなのでしょう。それはそれで、全然構いませんけどね」

「11年間の通算成績? 別にたいした成績でも何でもないですよね。たいして試合数も投げていないし、勝ちもしていない。(ヤクルトで活躍しているピッチャーの)石川(雅規)や館山(昌平)に比べたら、まったくたいした成績ではないです(笑)。正直言えば、“ケガがなければもっと投げられたな”とか、“もっと投げたかった”という思いはあります。でも、これが限界でしたね。だから、トータルで見ればまったくたいした成績ではないし、たいした選手でもなかった。それが僕の現役生活です」

「おそらくね、デビューが鮮烈だったから、世間の人たちは“ケガさえなければもっとできたはず。本当に惜しかった”と思っているんだと思います。でも、僕自身はまったく正反対の考えなんですけれどね」

「もしも、故障をしなくてそのまま投げ続けていたとしたら、たぶん打ち込まれて成績はもっと悪くなっていたはずです。でも、結果的にそこまで投げることはできなかった。だから、世間の人は『いい想像』をしてくれているんだと思います。打たれるイメージは持たずに、抑えるイメージだけを持ち続けてくれるんです。そのまま投げ続けていたら、確かに勝ち星は増えるだろうけど、負け数も当然もっと増えるし、防御率はさらに悪くなるはずなのにね」

他人とは違う肩関節域を持っていたこと。
出身高が強豪校ではなく、高校時代に肩を消耗しなかったこと。
社会人野球の先輩・永田晋一さんがスライダーを伝授してくれたこと。
バルセロナオリンピック日本代表監督・山中正竹さんというよき理解者に出会えたこと。
ヤクルトスワローズという球団で、監督・野村克也さんの下で野球を学び、古田敦也さんという名捕手とバッテリーを組めたこと。
「酷使」としか表現できないほどの登板機会を与えられたこと。
米国に渡って、日本とは違うリハビリを体験し、学べたこと。
いい仲間に恵まれたこと。度重なる故障の結果、身体に対する意識が高まったこと。
世間が勝手に「悲運のエース」というイメージを持っていること。

これらのこと、それ以外のことのこれまでの人生のありとあらゆることが「ラッキーだった」と伊藤さんは考えています。

「僕はラッキーですよ。世間の人が、自分のことを『悲運のエース』という目で見ていることは知っていますけど、僕自身は全然悲運だとか、不幸だとか考えたことはないです(笑)。でも、こうやって世間の人々が、今でも自分のことを話題にしてくれることは嬉しいですよ。まさに、ラッキーだと思います(笑)」


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
G戦で1試合最多三振記録を作ったものの、最終回に篠塚さんにサヨナラホームランを打たれたシーンは今でも覚えています。

「これまでの人生のありとあらゆることが『ラッキーだった』と思える」・・・確かにこう言いたいものですね。何かと、誰かや何かの所為にするのは、いい加減辞めたいものです。

今年、機会があれば、BCリーグでも観に行こうかなぁ。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

伊藤智仁さん、覚えていますよ!
兎党からしたら憎らしいピッチャーでした。
あの高速スライダーは凄かった記憶があります。

その後は確かに悲運のエースと言われるように実働は少なかったですけど、それをラッキーと捉えるポジティブさは見習いたいなぁ~

BCリーグで指導者としてのご活躍を祈念します。
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