石川・星稜高は1962年(昭和37年)に創立され、野球部も同じ年に創部となっています。甲子園は選抜大会が1977年の第49回が初出場で計11回、選手権大会は1972年の第54回が初出場で18回となっています。選手権では第77回大会の準優勝が最高位となっています。
言わずと知れた、あの、松井秀喜さんの出身校です。甲子園では智将山下智茂元監督の下で、数々の名勝負を見せてくれています。
その星稜高の名勝負の一つに、1979年の第61回大会での和歌山・箕島高戦があります。この大会は、二回戦(初戦)京都・宇治高に8-0で勝ち、三回戦で箕島高と対戦しました。。
試合は最初から投手戦となり、4回にお互いが1点をいれたまま延長戦に突入。12回表、星稜高が1点を入れ、その裏2アウトから箕島高がホームランで同点。16回表に星稜高が1点を入れると、箕島高はその裏2アウトから再びソロホームランで同点とし、結局18回裏箕島高がサヨナラで勝負を決めました。
1992年の第74回大会では、一回戦に新潟・長岡向陵高に11-0で勝ち、二回戦で高知・明徳義塾高との対戦となりました。この試合では四番サードで出場した松井秀喜さんが、5度打席に立つものの一度もバットを振ることなく、敬遠されてしまいました。この5連続敬遠について、社会的な議論となりました。試合は星稜高校は2-3で破れています。
そして、迎えた第100回目の甲子園での二回戦でも、甲子園の歴史に残るような試合を展開しました。
第3試合 二回戦
星稜010100020002 |11
済美010000800004x|13(延長13回)
星稜高にとっては、「魔さか」の展開が2回もあり、済美高に最大6点差を引っ繰り返され、延長13回に逆転満塁ホームランを浴びてサヨナラ負けを喫しました。球場から去る時の大きな拍手は、星稜高の方が大きかったような気がします。
星稜高は7-1でリードした8回から流れが一変。3本のタイムリーヒットで1点差に迫られ、2アウト一・三塁からレフトへ3ランホームランを打たれ、7-9と逆転を許してしまいます。
それでも星稜高は執念の粘りを見せ、直後の9回1アウト一・二塁からのタイムリーヒットで1点差。2アウト一・二塁からレフト前へのタイムリーヒットで9-9とし、延長戦に持ち込みました。
星稜高は延長12回に1アウト満塁の大ピンチを迎えますが、共にフルカウントまで追い込まれながら2者連続三振を奪い、今大会2度目の延長タイブレークに入ります。
13回の星稜高は1アウト二・三塁から、内野ゴロの間に1点を勝ち越し、続いてスクイズを成功させ、2点のリードを奪います。
(画像は画面キャプチャです)
ですが、直後の守備で1アウト満塁とされてから、済美高の一番にライトポール直撃の逆転サヨナラ満塁弾を浴びてしまいました。
ちなみに、済美高の中矢太監督は高知・明徳義塾高の馬淵史郎監督の教え子です。しかも、偶然にも「5敬遠」の時の教え子になります。星稜高いとってh、これも何かの宿命とでもいうのでしょうか。
それにしても、星稜高にとっては、本当にまさかの結果だったと思います。星稜高は甲子園での歴史や記憶に残る試合を演じて来ましたが、この試合もその一つとなると思います。
ただ、残念ながら、それもすべてが負け試合です。次は勝って歴史や記憶に残る試合をするために甲子園に戻って来て欲しいと思います。
(画像は画面キャプチャです)
第1試合 二回戦
広陵 000110000|2
二松学舎大付20000030x|5
第2試合 二回戦
浦和学院202000023|9
仙台育英000000000|0
第4試合 二回戦
高知商170400000|12
慶応 200020002|6