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野球からの贈りもの 価格:¥ 1,680(税込) 発売日:2011-05-18 |
現役引退後は2004年まで日本ハムでピッチングコーチ
2005年にスポーツコーチング術を学ぶため筑波大学へ入学と共に尚美学園大学女子硬式野球部の監督に就任
2006年は尚美ドリームスというチームで全日本選手権でベスト4
2007年から尚美学園でヴィーナスリーグ3連覇
2008年の第3回IBAF女子ワールドカップで日本代表のピッチングコーチを務め初優勝に貢献。尚美学園では全日本選手権初優勝
2010年の第4回IBAF女子ワールドカップでもピッチングコーチで連覇に貢献
2012年の第5回IBAF女子ワールドカップでは日本代表督に就任する事が決定
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「野球なんて・・・」
「上手くなっていると思えるのは、子供の頃だけなんですよね。長くやればやるほど伸びしろが減っちゃって、高校生くらいになると、いくら練習しても、上手くなっているという実感がないんです。だから、上手くならないからもういいやと、挫折してしまう子も多いんです」
「でもね、ほんとうは、ほんの少しずつではあっても、かならず上手くなっているんです。そして、一生懸命やるやつは、上手くなること以外にも、かならず、贈りものが、もらえるんです」
野球からの贈りもの。
「贈りものは、人によって違うから、これをもらえる、とはいえません。でも,間違いなく、一生懸命やるやつは、贈りものが、もらえるんです」
新谷の教え子たちが得た、野球からの贈りものは。
「もちろん、女子野球ワールドカップで世界一になったという結果もあるでしょうけど、勝ったとか、負けたとか、そんなんじゃあ、ないんです。毎日毎日、誰にも縛られることなく、大好きなことをやれて、毎日毎日、満足できたという、充実感でしょ」
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新谷博さん。
現在、女子野球日本代表および尚美学園大学女子硬式野球部監督です。元西武・日本ハムでプレーし、西武の黄金時代を支えた投手です。
小学校3年生で野球を始め、中学校時代にはキャッチャー。
3年生になるとエースで四番・主将を任されるようになったが、監督とけんかして退部。
高校では再び野球をやりたいということで、地元の佐賀商業へと進学。
中学時代に、実績と結果を残していなかったため、高校では「自分のポジション(ピッチャー)が言えず」、外野のフライを上げる係。2年になるとサードの控え。
だが、2枚看板のピッチャー陣がそろって体調を崩した際に代役を任され、それをきっかけにピッチャーに転向。2年秋からはエースとしてチームを支えたが、県大会決勝戦で敗退。
3年の夏はチーム打率と防御率のNo.1チームとして甲子園出場。
初戦の木造高校戦で9回2アウトまでパーフェクトピッチング。27人目のバッターにデッドボールを与え、パーフェクトゲームを逃すがノーヒットノーラン達成。
この年、ヤクルトからドラフト2位指名を受けるが、当時は高校野球の指導者を志していることもあり、意思を変えずに大学へと進学。
駒沢大では3年生になると先発を任され、秋までに通算16勝を挙げたが、冬の走塁練習で右ひざ後十字靭帯を損傷。
4年の春はケガを隠しまま投球したが、軸足の負傷と腰を痛めて制球が悪化。さらに、そのまま無理に練習を続けてヒジを故障。球のキレが失われてノイローゼに近い状態になってしまう。
大学では16勝6敗、防御率2.62、127奪三振の成績を残したが、プロからは声が掛からなかった。
社会人の日本生命へ進んだが、出番は少なく長い下積み生活。また、イメージどおりの投球ができないためイップスにもなり、結果が出ないまま3年間が過ぎる。
しかし、練習には真摯に取り組み、全体練習の後に個人練習を続ける。疲労のため外野で座ったまま眠ることもあったという。
社会人4年目に球速が140km/h後半となり全盛期の投球が復活。日本選手権での活躍と優勝に貢献し、プロの注目を浴びる。しかし、同僚のプロ入りが決まっていたことからドラフトでは指名されず。
翌年はバルセロナオリンピック代表候補に挙げられていたが、プロ入りを明言しドラフトの除外対象にはならず、西武から2位指名を受けて入団。
野球のエリートとして歩んでいるようにも思えますが、必ずしもそうではありません。
どんな状況に遭っても野球を続けたことで、得られた贈りもの。
新谷さんはプロ野球選手時代よりも、その後の野球人生の方がより輝いているのではないかと思います。