慶長5(1600)年9月15日
59歳の徳川家康が率いる東軍は
石田光成の西軍を破りました
〝関ケ原の名人決勝戦〟は
当初予想は家康軍が光成軍に
3子か5子置かせるほどの
〝棋力差〟があったのですが
家康軍が兵力を二手に分けたばかりに
あやうく星を落とすところでした
一軍を任せた息子・秀忠が
真田軍の進路妨害策に手を焼き
戦いに遅れること4日だったのです
手ゴマ不足の家康は苦戦を強いられるも
小早川秀秋の裏切りでかろうじて
なんとか勝ちを拾いました
天下分け目の戦いは
秀吉亡き後の実力者と
豊臣政権エリート官僚との
派遣争いでしたが
〝失着〟を覆す〝鬼手〟で
からくも〝1手勝ち〟
となったのです
父はカンカンに怒り
将軍職を継いだ息子は終生、
頭が上がりませんでした
その説教は――
「天下を治るということは
たとえていうならば
一局の碁を打つようなものである。
全局を支配する勝負所があり
その戦いで勝ってしまえば
三子、五子の敵の石があっても
どうのこうのいうことはない。
お前は、こうした話を
聞いたことがないのか?」
ちなみに家康の棋譜は未確認ですが
本因坊に5子ですから高段者です
かたや堅物の三成は碁を知らず碁が嫌い
「才があるが人望がない」
遊び心を持たないがゆえ
天下の大事を謀ることが
できなかった、といわれます
信長、秀吉、家康の
三英傑が好んだ囲碁
たかが遊び、されど遊び
覇権争い渦中の諸国諸大名にとって
戦争シミュレーションゲームは
避けて通れぬ必須の教養科目でした