【都市伝説千二百年 「みやこ」の痕跡/大極殿(だいごくでん) の巻】
「京都」という呼称が定着するのは
12世紀ごろといわれている。
千二百年前は単にみやこと呼ばれ
それは国の中心を表していた。
奈良・平城京から長岡京を経て
平安京へと遷都したのは第50代の桓武天皇。
当時の山城国はほとんど未開の地だった。
平安京の名称は
「平けく安けきみやこ」から命名したもので
安穏な時代を願ったものだった。
京都盆地は三方が山に囲まれ、南方が開けた地。
盆地中央を鴨川と葛野川の二つの流れが走り、
しばしば氾濫した流れの間に平安の都が誕生した。
みやこは、南北5.3㌔、東西4.5㌔。
碁盤のような長方形の大区画を占めた。
大内裏(平安宮)は、北の一画に位置し、
皇居である内裏や朝堂院(大極殿)、
豊楽院などの宮殿、官庁が建つ
宮廷の中心であった。
桓武帝が平城京、長岡京、平安京と
時計回りに立て続けに都を移していったのは何故か。
悪疫、天災、戦乱を回避するため
理想的な立地条件を追求したものといわれる。
北(玄武)に山地
東(青龍)に河川
南(朱雀)に湖沼
西(白虎)に大道
という四神がそろった「四神相応の地」が
京都盆地だったようである。
結果、千年のみやこ
つまり千都となったのである。
◇
千本通と丸太町通の交差点「千本丸太町」
このあたりに大極殿があった。
朝政の中心として995年に完成するも
3度目の火災の後に再建されず
一帯は荒野になってしまった。
今、京都の中心からは西にずれているが
それなりに行き交う人も車も多い。
だが銘板や記念碑に目を止めることは
ほとんどみられない。
これが風化の現実なのであろうか。
▲かつて、みやこに棲む、といったら
太い赤線に囲まれた地域で暮らすことだった
これが洛内であり、洛外とは峻別されていた
後年、河原町通の一筋西に造った「新京極」は
文字通り、極地に新しく作った通りだったのである