囲碁漂流の記

週末にリアル対局を愉しむアマ有段者が、さまざまな話題を提供します。初二段・上級向け即効上達法あり、懐古趣味の諸事雑観あり

平安京の面影をゆく1

2021年06月15日 | アウトドアにて

 


都市伝説千二百年 「みやこ」の痕跡/大極殿(だいごくでん) の巻】

 


「京都」という呼称が定着するのは

12世紀ごろといわれている。

千二百年前は単にみやこと呼ばれ

それは国の中心を表していた。

 

奈良・平城京から長岡京を経て

平安京へと遷都したのは第50代の桓武天皇。

当時の山城国はほとんど未開の地だった。

 

平安京の名称は

「平けく安けきみやこ」から命名したもので

安穏な時代を願ったものだった。

 

京都盆地は三方が山に囲まれ、南方が開けた地。

盆地中央を鴨川と葛野川の二つの流れが走り、

しばしば氾濫した流れの間に平安の都が誕生した。

 

みやこは、南北5.3㌔、東西4.5㌔。

碁盤のような長方形の大区画を占めた。

大内裏(平安宮)は、北の一画に位置し、

皇居である内裏や朝堂院(大極殿)

豊楽院などの宮殿、官庁が建つ

宮廷の中心であった。

 

桓武帝が平城京、長岡京、平安京と

時計回りに立て続けに都を移していったのは何故か。

悪疫、天災、戦乱を回避するため

理想的な立地条件を追求したものといわれる。

 

北(玄武)に山地

東(青龍)に河川

南(朱雀)に湖沼

西(白虎)に大道

という四神がそろった「四神相応の地」が

京都盆地だったようである。

結果、千年のみやこ

つまり千都となったのである。

 

 

         ◇

 


千本通と丸太町通の交差点「千本丸太町」

このあたりに大極殿があった。

朝政の中心として995年に完成するも

3度目の火災の後に再建されず

一帯は荒野になってしまった。

 

今、京都の中心からは西にずれているが

それなりに行き交う人も車も多い。

だが銘板や記念碑に目を止めることは

ほとんどみられない。

これが風化の現実なのであろうか。

 

▲かつて、みやこに棲む、といったら

太い赤線に囲まれた地域で暮らすことだった

これが洛内であり、洛外とは峻別されていた

後年、河原町通の一筋西に造った「新京極」は

文字通り、極地に新しく作った通りだったのである

 

 



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2 コメント

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Unknown (knsw0805)
2021-06-15 15:14:20
こんにちは、ご訪問ありがとうございます。ブログコンセプトが素晴らしいですね。フォローボタン、いいねボタン押させて頂きました。今後ともよろしくお願いします。
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Unknown (fumi-bow1956)
2021-06-15 19:35:47
様 うれしいコメント、多謝です。こちらこそよろしくお願いいたします。
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