銭湯すたれば
人情もすたる
田村隆一(詩人)
【セントウ流行れば、センソウ廃れる
~ 人の世は交流があってこそ の巻】
緊急事態にて碁会が2カ月休みとなった今春
ひまつぶしには寺社巡りと銭湯巡り。
それぞれ二桁を超えてしまった。
「銭湯」は、
客から銭を取って入浴させる商売である。
江戸の風呂屋は2階に休憩所がこしらえてあり
湯茶を出したり、菓子を売ったりしていた。
ただし2階があるのは男湯だけだった。
将棋盤や碁盤も置いてあり
庶民の社交場・娯楽場であった。
江戸の湯屋は六百軒あった。
湯銭は享和年間(1801~03)ごろまで
十文(120円ほど)と安かったが
幕末には二十四文から四十文に値上がりした。
当時は湯を少し入れて蒸気を立てて
蒸し風呂気分を簡易に味わうスタイル。
のちに湯をたたえて入浴する温浴式に変わった。
湯屋は格好の交流施設であったから
賑わいのなかに噂話が飛び交って
庶民のおしゃべり=情報交換の場であった。
現代の銭湯には
「会話は出来るだけ少なく」の貼り紙があり
声の大きなおしゃべりは注意の対象。
サウナは会話禁止である。
東京都内の銭湯は
前世紀のピーク時に2600軒を超えたが
いまは489軒を数えるのみ。
随分減ったとみるか、
まだ踏ん張っているとみるか。
◇
子どもの頃
家に小さな風呂があったのだが
風呂好きの父に連れられて
よく銭湯にも行っていた。
まだ日が高いうちだったから
沸き立ての湯にすぐには入れず
蛇口をひねって冷水を足しながら
大人が長い木の板を操って
湯を冷ましていた光景が
目に焼き付いている。
昭和30年代だったから
身体に大きな傷のある人もいた
腕や足を失っている人も少なくなかった。
親からそのワケを聴いたのだろう。
子供心にちくり胸が痛んだのを想い出す。
そんな話をどこでどうしたのか
父子で背中を流し合ったのも懐かしい。
当時は混浴が珍しくなかった
お上が取り締まっても徹底されなかった
壁の穴から女湯を覗いている男がいる
江戸屋敷勤めの地方藩士らしい
何事にも大らかな時代だった