【「大国手」と「御城碁19戦無敗」の伝説の巻】
■本因坊丈和は、幻庵の11歳年長だった。それが名人御所という「碁界の行政長官」に就くことに有利に働いた。
■名人の座を手に入れそこなった幻庵は、そのくやしさを「大国手」と名乗ることで、紛らわせようとした。
実力は日本一というわけだ。それは丈和も言下に否定できなかっただろう。
■幻庵の壮大な構想力や発想力、ヨミの深さに魅了されるプロ棋士は多い。
■かつて趙治勲25世本因坊の手を見て、上村邦夫九段(2004年没、享年58)が「ああ、この手は幻庵因碩のような手だなあ」と思わずうなったことがあった。
おそらく高い勝率を続ける安定した碁を目指すことなく、思わずうならせる妙手・鬼手の芸に生きた碁打ちだったのだ。
■かつて先人は言った。
囲碁史に傑物が二人いる。
一人は村瀬秀甫(のちの本因坊秀甫)、もう一人は幻庵因碩だと。
◇
■琴棋書画(きんきしょが)は、文人や士大夫が嗜むべきとされた芸のこと。四芸といわれる。
■金銭・損得を目的とすることは、雅を尊ぶ文人の価値基準には堪えない俗物行為とされた。たとえ権力者であろうとみだりにこれらの芸を披露すべきものではないという気骨を生んだ。
だが現実社会では、芸を売って糊口をしのぐことも、貪らないかぎりは下賤とは見做されず、貧窮にあえぐ文人の多くが書画などを売って米に換えた。時代が下がるほど、こうしたケースが増えた。
■家康は囲碁を愛した。信長、秀吉と同じ家庭教師、のちの本因坊算砂を師とした。家康が高手を士分扱いし召し抱えたことで、徳川時代は芸の華に彩られた。
そのなかで碁聖の尊称を持って呼ばれたのが、四世本因坊道策と十二世本因坊丈和。「前聖」と「後聖」である。
■ただし後に「後聖」は本因坊秀策に変わった。「御城碁19戦無敗」のまま、34歳の若さで病死した。その伝説が効いた。
■秀策は先番でも、白番でも、簡明に分かりやすく勝った。丈和のような剛腕ぶりを見せつけることなく、適切な形勢判断と適切な着手が持ち味だった。サラサラっと勝ってしまう。だが非勢に陥った際の粘り腰、底力は驚異的であった。
■棋譜並べは秀策の譜、と言われる。昭和の名棋士が学ぶ「鉄板」のテキスト。
400譜近くも収録した重い「秀策全集」を持つ手がゆがんでしまったのは、昭和の棋聖・呉清源だった。大三冠(主要三大タイトル独占)の趙治勲も「秀策全集」がボロボロになり、買い替えたほどである。
■わたしは、勉強のために秀策を、楽しみのために幻庵を、時々並べている。