▼LPジャケット――ビリー・ホリデイやダイナ・ワシントンの熱唱が目に浮かぶ
◇
▼「一枚の絵」がJazzライフのきっかけだった(かもしれない)
札幌・狸小路のB♭ (ビーフラット)で、けだるいサマータイムを初めて聴いた
この店のマッチ箱にはビュッフェの絵がデザインされていた
◇
▼S級の愛読書ゆえ表紙が破れかけ
▼雑誌広告デザインはこんな感じ。今は? 廃業あり、存続あり
▼あの時 君は若かった~ あの時 僕も若かった~ ♪
▼ブログもツイッターもなかった時代、雑誌投稿欄はそれなりの存在意義があった
▼もう一方の愛読書512㌻。よく勉強したものだ!
▼モダン・ジャズ・スーパー・スター物語のなかのバド・パウエル
【夢で逢いましょうの巻】
■思い付き「京都てくてく」シリーズもいよいよ大詰め。
「1970年代~遠き記憶の河原町界隈」を点描します。
■一番よく通ったのは、ここ。
ZABO(中京区河原町三条上ル一筋目東入ル えびす会館地下1階)。
三上寛ライブを手を伸ばせば届くような最前列で聴いた思い出の空間。
(のちに結婚した女性と一緒だった、かな)
1960~70年代中心にオールラウンドなコレクション3000枚の正統派の店。
トイレの落書きは「(〇〇派)殲滅」とか「造反有理」とか。
いつも、暗い空間で、2時間、3時間、黙ってJAZZを聴く。
ただ、それだけの暗い青春の一コマ。
■その帰りに、
リバーサイド(中京区河原町蛸薬師上ル東側 商都河原町ビル2階)。
聴いたばかりの曲が入ったLPレコードを衝動買いする。在庫豊富で安い。
南に丸善ビル、北にBALビルがある。
わたしの中の世界の中心は、ここだった。
■暗い空間といえば、
蝶類図鑑(中京区河原町蛸薬師丸善角東入ル サウナビル2階)。
ハード・バッブ中心に幅広くスイングからニュー・ジャズまで。
ただしクロスオーバー、クロスオーバー風は一切なしの本道をゆく。
2500~3000枚。デビュー盤「バド・パウエル」を所蔵していた。
■ほかに、暗闇につんざくような大音響ロック空間、治外法権。
近頃、復活したと仄聞したが……。
■音楽喫茶ではないが、
河原町三条東側少し南にある六曜社(ロクヨー)。
そして、近くの2階にあったコニーアイランドは、天然記念物的な快適空間。
一階入口に、店名をデザインした西海岸風のパイプ管が目印。
高齢ご夫婦がやっておられ、コーヒー1杯でゆっくり読書ができて、
どんなに粘っても、何もおっしゃらない。
友人の間では「河原町の読書空間」で通っていた。
一階入口に、店名をデザインした西海岸風のパイプ管が目印。
高齢ご夫婦がやっておられ、コーヒー1杯でゆっくり読書ができて、
どんなに粘っても、何もおっしゃらない。
友人の間では「河原町の読書空間」で通っていた。
「友達ができる相席空間」ロクヨーと無関係ではなかったらしい。
マスターの祖父母がコニーを経営していた、との情報があるも、真偽不明。
■SM SP0T(同志社大東側)、ザ・マンホール(四条堺町)、拾得(大宮通下立売)も。
SMは所蔵900枚弱だったが、よいものを厳選していた。
マスターは時々店を閉めてはアルバイトに出て、店を維持していた。
こういう人種が珍しくない時代だったのである。
今は昔、みんな、夢の中――
▲1970年代の河原町「JAZZ喫茶」立地状況
いずれもレコード棚には2500~3000枚、コーヒー250~350円で聴き込めた
JAZZ漂流の旅は、札幌のB♭で始まり、
京都河原町で逗留し、
そうして終着点になった
▲B♭のマッチ箱
バド・パウエル(1924~66年) 米国のジャズ・ピアニスト。右手の高速シングルトーンと頻繁なコードチェンジに対応するため、左手はコードプレーに徹するという、ビバップスタイルを確立。セロニアス・モンクとも親交があり、音楽理論を学んだ。 1950年前後に絶頂期を迎えた後、麻薬・アルコール中毒と精神障害に苦しむ。この時期の演奏は、呻き声を発しながらも鬼気迫るパッションがあり、天才性を感じさせる必聴盤多数。
クレオパトラの夢 バド・パウエル作曲のスタンダード。1958年録音アルバム「シーン・チェンジス」の1曲目
2019年11月9日(土) 京都てくてくの記 <とりあえず、おしまい>