【享保の改革を支えた名奉行のはなし の巻】
大岡越前守忠相が
江戸町奉行の時のことである。
ある日、下谷肴町から
「下谷辺りの寺院八カ所の肴代金が
全部で百両余りになるのに
支払ってくれない。
何とかして頂きたい」
との訴えがあり
寺ごとの代金明細書が付けられていた。
越前守は、
この書き付けを受け取り、
肴売りを帰して、
それから八カ寺に呼び出し状を送り、
明朝出頭せよ、
と命じた。
翌朝、寺の一同が出頭してきた。
しかし、越前守は、
そのまま夕方まで待たせて置いた。
寺の僧たちは、その間、
代わる代わる厠(かわや)に行ったが
壁に張り紙がしてあり、
寺ごとの肴代未払い額が
詳しく書き出されていた。
これを目にした僧たちは驚いた。
夕方になって、町奉行所の用人が僧たちに
「奉行は気分が悪くなったので
取り調べができなくなった。
今日は、このまま帰るように」
と言った。
僧たちは帰ると
あわてて肴売りに借金を返済した。
そして、以後、町奉行所から
呼び出しがなかった。
また、他日のことである。
紀伊徳川家の薪(たきぎ)代金が
千二百両余り滞っている
との訴えがあった。
越前守は
紀伊徳川家の勝手係の役人を呼び出し
薪屋から差し出された帳面を見せ
「どのように取り計らったらよかろうか」
と言った。
紀伊家の役人は返事をしなかった。
そこで、越前守は薪屋に向かい
「これは、そのほうの損失
ということにしよう」
と、帳面に黒線を引いて渡した。
紀伊家の役人は帰って
この模様を伝えたので
捨てて置けないということになり
紀伊家では代金を全額、薪屋に支払った。
この二つの裁判は、
いずれも面白いことだ
と評判だった。
(出典:甲子余話)
* * *
寺も、御三家も、
町奉行の管轄外だった時代。
それでも、捨て置け、
とは言わなかった忠相。
縦割り行政の弊害が叫ばれる現代でも
とてもそんなことにならないだろう。
法がない、予算がない、人手がない。
エクスキューズありきで
リスクなど負わない。
減点主義とチャレンジ精神の欠如。
ないないづくしで、
失われてゆくものがある。
2回目の接種をとうに終え、
やや安心感を得たわたしだが
もし感染して、在宅で、といわれた時
仮に一人暮らしだったと想像するに
「見捨てられた」と思うに違いない。
いま、そういう世の中に生きている。