忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

橋下徹氏ウィル・スミス騒動「これで暴力許しちゃったらプーチン大統領の軍事侵攻もいいのかっ…

2022年03月30日 | 忘憂之物





立憲民主党の憲法調査会長に就任した中川正春氏。憲法改正には「賛成」との立場だったと思うが、いまは「改憲ありき」はダメとのことだ。それは国民を分断させるだけだ、ということで、もっと論じようとして「論憲」を提唱している。ちなみにその議論にはあんまり参加しない。意味が分からない。

毎日新聞にコメントしているが、要点は他にもあって、例えば「安倍晋三元首相は、改憲ありきの方針で憲法議論を進めようとしていた。しかも9条改正を目指すことを隠そうとしなかった。これでは議論は進まない」と言う。

議論するには「現行憲法の肯定」が前提として「日本国憲法の三原則、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義は、守り継いでいくべきものだ」との論を展開する。何年か前に「安倍総理を不眠症に追い込もう」と気勢をあげていた御仁だ。そこには安倍氏の基本的人権が見当たらないのだが、どこかで見かけなかったか聞いてみたいものだ。それに「前提条件」を設けてからしか議論に応じないという姿勢はプーチンと同じだ。

言うまでもなく、改憲派も「国民主権より国家の繁栄」とか、鳥肌実のネタみたいなことは言わない。武力をもって他国を侵略する、などのプーチン丸出しもいない。いま、焦眉の急としての「9条改正」は国民世論の総意とすら言える。みんなテレビのニュースを見ている。プーチンや習近平に9条が通じないことは小学生でもわかる。「平和主義ですから」でも金正恩はICBMを日本の排他的経済水域にぶち込んでくる。それがどれほどの危険か、航空機や漁船でも被害に遭わないとわからないか。

地震や火事が恐ろしいのと同じく、ネオコン以外の普通の人間なら「戦争反対」も常識だ。犯罪被害もお断りだ。誰でも夜は安心してゆっくり眠りたいし、仕事で遅くなった女性の一人歩きも、晩飯までの時間、公園で子供だけが遊んでも、毎日毎日、何年も何年もずっと、安心安全な世の中がよろしいに決まっている。こんなものは議論の余地すらない。だから、これを「護らねばならない」に普通、異論はない。

マスコミなどは凶悪犯罪者に対しても「なにが犯人をここまで追い詰めたのか」とか「社会にも原因があると思います」とやるが、これも普通は知ったことではない。また、その擁護論は旧日本軍やプーチンには適用されない。「なにがプーチンを追い詰めたのか」「国際社会にも原因があるのではないか」とやれば非国民扱いされる。怖いから青と黄色の服でも探して着るほかない。

「暴力」もそう。基本的にはみんな反対。これは腕自慢の不良はともかく、暴力のプロであるヤクザでも同じと思う。出来るなら手段は選びたい。反撃されたり、逮捕されたり、それなりのリスクもある物騒な手段は避けたいはずだが、場合により「暴力」を用いたほうが効果的であり、経済的であり、目的達成の確率が上がるなら迷わず用いる、というのが素人との差異だ。

もちろん、素人でも「暴力沙汰」はある。くだらぬ理由から発生する場合もあるし、餓鬼の頃なら目が合った、肩がぶつかった、で鼻血出して殴り合うこともある。大人になっても危ういシーンはある。侮辱されたときもそうだ。我慢する場合もあるが、ついカっとして、は想像に難くない。ちなみに男女共だ。

それと「大切なもの」を口汚く罵られたりした場合もそうだろう。私も知命を迎える前から周囲の評価は「怒らない人」になった。「これ、普通は怒りますよね」と感心されるときもある。まあまあの無礼な態度にも寛容に対処するから、1年後や2年後に謝罪に来るのもいた。

少しだけでも年を重ねて理解したのだろう。いかに自分が無礼な態度だったかを自省し、且つ、それを寛大に許してくれた相手に感謝すら覚える。これを成長という。それでも不思議そうにしている若者に言ったことがある。

もし、白目をむいて笑いながら怒る私に出会いたければ「私の目の前で妻を愚弄してみろ」。きっとトラウマになるほどの恐怖を提供することができる、と伝えると、絶対にやめときます、肝に銘じておきます、と誓う。互いのためにそうしたほうがいい、と私も思う。

私もそうだが、往々にして人は「怒れない」のではなく「怒らない」に努めている。しかしながら、それは「詰まらぬことで」という前提条件が付く。アルバイト店員の態度が悪いとか、生意気な若造が勘違いして偉そうな物言いをするとか、道が混んでるとか、隣の住人がうるさいとか、まあ、そういうことだが、その前提条件が崩れる場合は当然ながら「怒る」。たぶん、場合にもよるが暴力も辞さない。


その観点からウィル・スミスの件について書くと、先ず、私の個人的な感想からすれば「完璧に格好良かった」ということになる。理由を書く。


先ず、その場で、ということ。それから「ビンタ」という暴力の手段。席に戻ってからの「その薄汚い口で俺の妻の名前を口にするな」というセリフ。すべてが完璧だ。その後の受賞スピーチでの謝罪。殴った相手にも公式に謝罪したとか。実に男として、夫として、人間として尊敬する。元々好きな俳優だったが、これはもう心底ファンになる。ちゃんと「メン・イン・ブラック」とか観る。

とりあえず、格好悪かったのは周囲の観客らだ。あんな下衆なジョークでへらへらしていた。病気を弄って笑いを取る、などはNSC(吉本総合芸能学院)の新入生でも叱られる。理由は簡単、笑えないからだ。

それから殴られたコメディアン。あの場で謝罪すべきだった。まだ「場の空気」を保とうとしていたが、絶対にそれは無理だし、もはや滑稽でしかない。基本的に「ネタにされた人が怒っている」ならジョークとしての破綻を意味する。ジョークで喰ってるなら、そこだけは真摯に向き合わねばならない。殴られた後、だまってウィル・スミスの言い分を聞いてから、収まったところで誠心誠意からの謝罪をすべきだった。それならウィル・スミスも受け入れたかもしれない。もう一度、ステージに行って謝罪したかもしれない。それなら豪華ステージにふさわしい万雷の拍手があったのではないかと思う。


そして、せっかくなので最も格好悪いのを紹介しておく。読者諸賢の日本男児諸君、間違っても「こうはならないよう」に粉骨砕身、互いに精進しようではないか。

今月の最初のほう、橋下氏は池田信夫氏に対して「これまでの人生の中で殴り合いの喧嘩を一度でもやったことある?」とSNSで馬鹿にしていた。池田信夫氏は68歳である。「あんた、どう考えても戦場で戦えるとは思えんな。泣いて敵に命乞いするか、真っ先に助けてくれと味方に懇願するか、逃げるか、隠れるかちゃうの? 」と68歳の経済学者に言う。

そしていま、ウィル・スミスの件にて「だけど、その立場だったら自分の想像とか腹の中で殴り倒しますかね。立場があるから、もしこれで暴力許しちゃったらプーチン大統領のああいう軍事侵攻もいいのかって話になってしまうから、こういうことがあったとしても、公の場で暴力っていうのはこれは認めるわけにはいかないでしょうね」と言う。

68歳の経済学者には「殴り合いの喧嘩したことあんのか」と挑発し、ウィル・スミスにはプーチンを引き合いに出して「公の場で暴力っていうのはこれは認めるわけにはいかないでしょうね」と「大人の意見」を言う。これ、最初から最後まで、ぜんぶ、壊れている(個人の感想です)。

「公衆の面前で愛する妻を愚弄された男のビンタ」と「20万からの軍隊で他国に侵攻する国家」を比較対象として論ずる。橋下徹、玉川徹の「W徹」に対して「この2人の話を聞くと、戦争のリアリティを伝えないで「戦争はいけない」とか「原爆は悲惨だ」としか教えなかった日教組とマスコミの罪を痛感する 」と言った68歳の経済学者に「あんた」呼ばわりで「戦場で使えない」「殴り合いもしたことない」と小馬鹿にする。これは格好悪い。


これ、もし、だ。

ウィル・スミスがその場でへらへらして、受賞のスピーチでも何も言わず、式が済んでから、訴訟大好きなコメンテータ弁護士のように、下衆いジョークの司会者を「名誉棄損」で訴えていたらどうか。ハリウッドの大スター、最優秀主演男優賞の俳優だ。言うまでもなく、莫大な資金力、強力な弁護団を用意できることだろう。それで「会見」でもして「許さない」とか吠えたらどうだ。

それからツイッターで10連投とか、ぐちぐちぐちぐちやったらどうだ。批判されたらまた「ロシアがいちばん悪いけど、公然と妻に恥をかかせたクリス・ロックが悪いやんけ、お土産もってこいぼけ!」とかやったら「ドリームプラン」は観に行かない。格好悪いのである。

ああいう場合は「その場でシバいて謝る」のがよろしい。嗚呼、格好いい。




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