ずいぶん前だが―――――
「なみはやドーム」に電話する。
『あの、そこのプールにある“飛び込み台”を使わせてほしいのですが・・・』
「はい?あのぉ・・どういった・・・?」
『“飛び込み台”の高さは10メートルなんですよね?いちばん高いやつ?』
「はぁ・・・あのぉ・・10メートルで、はい、可動式のものがありますが・・・」
『ああ、そうですか!そこを借りたいんですけど、どうすればよいですか?』
「えぇと、どういう・・?練習か何か・・?」
『いえ、我が社の社員をですね。そこから飛びこませようかと。あっはっは。もちろん、経験なんぞありませんがね。ブログのネタなんですよ。店舗の。』
「・・・・・・・・無理です。お貸しできません。危険です。」
『危険なんですか?』
「はい、そりゃもう・・・」
『私は飛びませんもんで・・・・』
「・・・・・。申し訳ないんですが、お貸しできません。」
『ああ・・・そうでしか。』
「そうでし。」
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-
むぅう残念。いい「画」が撮れると思っていたのだが・・・
なぜだか、社員一同は安堵の表情を浮かべているし・・・家族の写真を見ながら喜んでいる奴もいるし・・・肩を叩きあって、なにやら「共感」している。わけがわからん。
それにしても、なんだこの「なみはや」め。我々の「ブログ作成の権利」を侵害するとはどういうことか。「貸し出せない」と門前払いするとはどういうことか。金は払うと言っている。飛び込むのも我が社の社員である。経験がないということも自由ではないか。ったく、この「なみはや」の姿勢はなんとも許しがたい。「理由はわかるが、安全を第一に考えると貸せない。」などという詭弁を弄して、我々の権利を侵害するとは全く許しがたい。
・・・・・。
・・・・・。
などと、私が書いたら阿呆だと思うでしょ?
「そんな阿呆おるかいな!」ってなもんでしょ?
でも、おるんです。
「2」へ
■2008/02/02 (土) ガチコメ的「集会の自由」2
ほら。
http://www.asahi.com/paper/editorial20080202.html
<教研集会拒否―ホテルが法を無視とは>
「街宣右翼」の抗議行動を憂慮するホテル側が「日教組」の集会を断ったら訴えられた。それも、ホテル側が「当日は、周辺の学校において入学試験が行われることもあり、周囲の住民や学校になんらかの障害があっても困りますので・・・」と「日教組」よりも「学生」を心配しているというのが笑える。
朝日はプンスカ怒っている。ならば、朝日の本社を貸すとかすればよいのに。
<ホテルの姿勢は、なんとも許しがたい。批判されるべきは、大音量をまきちらし、我がもの顔で走り回る街宣車の無法ぶりだ。その影響があるからといって会場を貸さないのは本末転倒だ。右翼団体の思うつぼにはまることにもなる。>
「左翼団体の思うつぼにはまれ」と怒ってらっしゃるわけだ。
で、「日教組」側の「集会の権利と自由!」も噴飯ものの理屈である。こんな連中が子供に何をしようというのか。
都合のよいときだけ、この国の司法制度を利用し、例えば「国旗国歌」に関する判決が出されても、それが不都合な判決ならば「不当判決!」と騒ぎたてるわけだ。ダブルスタンダードも裸足で逃げ出す論理破綻、ご都合主義、利己的なカス集団である。
そもそも、ホテル側は「日教組は解散せよ!」とか「集会は認めない!断固として阻止する!」とこぶしを振り上げているわけではない。ただ、「貸せません。すいません。」と言っているに過ぎん。そして、その理由と対応は非常識でも何でもない。
<さらにあきれるのは、東京地裁と東京高裁が日教組の訴えを認め、会場を使わせるよう命じたにもかかわらず、がんとして従わなかったことだ。法律に基づき裁判所が出した命令を無視するのでは、企業としても失格である。>
今更ながら、朝日は大丈夫なのか?
裁判所が個人的な施設に「貴様が悪い。貸せ。」と命令できるとでも言うのか?ンなもん、まるで支那ではないか。
裁判所は
「貸してくれという側は間違ってないよ。でも貸さないって言われちゃったから、それで被害があったなら賠償してもらいなさいね。」
と言ったに過ぎんのだ。それをこの解釈で全国紙に書くとは、ほんっとに毒入り餃子な新聞であるな。
「3」へ
■2008/02/02 (土) ガチコメ的「集会の自由」3
つまり、ホテル側は「違約金を支払え」といわれるのみだ。それで、当然ながらホテル側が「なんでだ?この阿呆ども?ああ?受けて立ってやるわい!」と訴えればいいのだ。それが法治国家のトラブルであろう。この新聞はここが支那とか北朝鮮だとでも思っているんぢゃないか?
<なぜ、これほどかたくなな態度を取るのか。ホテル側は右翼団体などからの圧力を否定するが、何かあったのではないかとつい勘ぐりたくもなる。
このホテルの親会社である西武ホールディングスの後藤高志社長は、銀行員時代に総会屋との決別に力を尽くし、小説のモデルにもなった。それなのに、なぜ……。ことのいきさつをぜひ聞きたい。>
阿呆だww
勘ぐりを書くなというにww
意味がないし、面白くもない。レベルが低いww
で、
<それなのに、なぜ・・・・>
阿呆。「それだから」だ、公共心溢れる立派な人なんだろう。朝日にはいないタイプだ。
<いきさつをぜひ聞きたい>
聞かせてくれんだろうww
何と書かれるかわかったもんぢゃない。
<こうしたことが続くと、憲法で保障された言論や集会の自由が危うくなる。
グランドプリンスホテル新高輪は自らの行為の罪深さを考えてもらいたい。>
たかが、新聞紙が信じられん傲慢さだ。どこの国だここは?
それに何様のつもりなのだろう。この奢り高ぶった感覚は、宗主国の宿痾とでもいうべきか。大中華思想の残りカスがこんなところにこびりついているのだろう。嗚呼、気持ち悪い。
「4」へ
■2008/02/02 (土) ガチコメ的「集会の自由」4
それに全然「危うく」なっていない。集会くらい、その気があれば「原っぱ」でもできる。そして、普通の感覚からして、「ぢゃあ、他を探します。」というのが常識であろう。つまりこいつらは「非常識」なのである。
今のところ、日本国内において「日本国民を拉致したりするような」悪逆非道の独裁国家の傀儡団体ですら「集会」をすることもできる、世界でも稀に見る呆けたような国ではないか。
明らかに日本を貶めるような内容の集会でも鎮圧もされんし、テレビや新聞で捏造して歪曲しても逮捕されることもないだろう。言論も自由も危うくなどなっていない。もうすぐ、己の工作活動に都合の悪い言論を「不自由」にしようと企てる工作機関が何を言うか。片腹痛い。
それに「街宣右翼」もわろたww
「我々の抗議が伝えられないから、中止になっては困る。」
ww
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ところで、帰ってきたばかりのガチコメタンクの車内で「nwes23」なんかを見た。
「ルワンダ」を取りあげていた。
途中からだったのだが、死刑廃止をした国として紹介されていた。呆気に取られる。
1994年、ルワンダのジェノサイドによって、暴徒化したフツ族の男に夫と娘二人を殺害されたという奥さん。なんと、その男と一緒に暮らしているという。恨みは消えたという。
男は「家族のように暮らしている。釈放されて、謝りたかった。謝罪をすることができてよかった。」という。
奥さんは「彼はもう罪を犯しません。許すことで私も救われました。」という。
すいません。あの・・・
デキテたんでしか?
スタジオでは、あくまでも「中立公正」な立場であるとしたいのだろうが、内容が偏り過ぎて突っ込む気も失せる。なんだ、この特異な事例は?わざとらしい。
「5」へ
■2008/02/02 (土) ガチコメ的「集会の自由」5
その内実は、近代的な捜査ができず、更にはキチンとした司法ができていないことからのモラトリアムであることは自明であろう。ちゃんと議論がなされて決まったわけでもない。賛成と反対が半分ずつあるのがその証左ではないか。冤罪で殺してしまうリスク、薄弱な根拠から極刑に処してしまう可能性が否定できんから、それも仕方がないことかもしれん。
しかし、日本は違う。
http://www.asahi.com/national/update/0202/TKY200802010395.html
<3人に死刑執行、2カ月で再び 法相、異例のペース>
仕事をしているだけで「殺人法相」とでも言われかねん。死刑制度がある国で、未だ104名もの死刑囚が「待たされている」のかと思うと、若干、気の毒になる。
ルワンダのVTRで話していた「死刑反対派」の言い分ではないが、「殺されるとそれでおしまい。生きて罪を償わせるほうがよい。」という観点からも、「殺されるのを待つ」というほうが残酷であろう。まあ、「news23」ではサラリと触れるだけであったが、つまり、「終身刑」という極刑とのバーターであれば考慮することもできるということであろう。
ルワンダの死刑囚も、「これで謝罪できる機会を得た。」と「生きる希望がわいてきた。」などと身勝手にポジティブなことを吐いていたが、それは「食事」があって「労働」があって「安全」だからに知れている。己が殺害した人はもう、水の一杯も飲めないなど歯牙にもかけん手前勝手な声を聞くと、やはり、人間にとっての「死刑」は必要なのだと思う。
「6」へ
■2008/02/02 (土) ガチコメ的「集会の自由」6
<昨年12月の前回執行時には初めて、執行された死刑囚の氏名や、犯罪事実などを発表した。「死刑制度への国民の支持を得られる」という狙い。1日の会見でも「あの事件の犯人が凶悪さゆえに処刑されたんだなということを、国民に理解して頂くのは非常に重要」と述べた。>
まったく単純にその通りである。
「やったらやられる」のが当たり前なのだ。これを残酷とか野蛮と非難するのは勝手だが、否定派の「ハムラビ法典の時代に戻す気か!」も、意味を理解していないものが多い。
「目には目を。歯には歯を。」
というのは「やりかえせ!」と煽っているわけではない。ん?前にも書いたか?
つまり、「目をやられたら、目だけにしとけ。」という警句であるのだ。報復することを前提として、不可抗力として、「あるもの」としているのだ。更に言えば「あって然るべき」とも解釈できる。だからこそ「やられた以上のことはするな、それ以上は野蛮であるぞ?」と警鐘を鳴らしているのだろう。
そして、この「反対派」の意見にも、私は大賛成なのである。
<一方、超党派の国会議員でつくる「死刑廃止議員連盟」事務局長の保坂展人衆院議員は「氏名や確定判決を読み上げる一方で、執行時の状況は隠す。都合のよい情報だけの『公開』を口実に、法務省は大量執行時代にかじを切った」と指摘する。>
いいこと言うぢゃないか。よっ!人権屋!!
「執行時の状況を隠すな」!!
その通りである。実況生中継どんとこい。
なによりも「良い教育」になるだろう。
ね?日教組さん?
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