忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

新種誕生のはなし

2021年11月24日 | 忘憂之物

立憲の蓮舫がツイッターで「おはようございます!!グッと肌寒い朝ですね。今日は勤労感謝の日、皆さま、お仕事お疲れ様です 」と書いただけでスポーツ報知がニュースにする。つまり、みなさん、蓮舫がこんなこと言ってますよ、どう思います?と問うている。

続くコメントなどを見ると、案の定「おまえがいうな」「なんかむかつく」が並んでいる。「レンホーは知らんだろうが、今日は新嘗祭だ」みたいなのもあったが、勤労感謝の日に政治家が「お疲れ様です」を言うのは、犬がわん、と吠えるのと同じく、まったく普通のことだが、それだけのことで「今日は祝日。それでも働いて税金払えと言うか。さすが立共」とかいちゃもんだ。

スポーツ報知の記者も満足だと思うが、アンチというか、異常な嫌われ方だとわかる。このような憂い目に遭う政治家やタレントは他にもいるが、私個人の主観によるところ、こういう連中は往々にして、己が嫌われていると自覚したうえで、それは「ハッキリモノを言うから(言っちゃうから)」というポジティブな理由を述べることがある。思ったこと言っちゃうんです、と頭を搔く。

日本人は昔から「ハッキリ・スッキリ・ズバズバ・ズバリ」などが大好き。曖昧さを自認しながら、民族性からなる奥ゆかしさからなる所以。まさにNOと言えない日本人ここにあり、ということでNOをはっきり言う人は人気があった。最近では中国や韓国に強いNOを示す言論人や政治家は本も売れるし、動画の再生回数も順調で講演会も多くて忙しい。アメリカやロシアにもNOを突き付けることもあれば、支持政党であっても場合によればNOを躊躇わない。

しかしながら、ちゃんと好かれるにはいくつか条件があることにも気づく。

例えば、いまの立憲民主党の代表選が面白くないように「なんでもNO」はダメだった。多くの国民は、そこまで言うからには納得できるだけの「YES」を持っているのか、と不安にもなったが予想通り持っていなかった。また、衰退の一途を辿る地上波メディアも「相手を選んでのNO」が見透かされてしまった。相手が悪いと無様なほど何も言わない。

それといい加減さ、だ。およそ信念に基づいた言動ならばあり得ないミスが頻発する。基本的にNOが言いたいだけ、反射的にNOを言ってしまうからだ。

例えば、そんな代表。福島瑞穂という人がいるが、この人は2012年の参院本会議における緊急質問で「復興予算が被災地以外に使われている、被災者は激怒している」と言った。当時はまだ悪夢の終盤だったが、さすがの野田内閣も困っていた。どうしたものかと思ったはずだ。

東日本大震災復興基本法が成立したのは2011年6月。第一条には「東日本大震災からの復興の円滑かつ迅速な推進と活力ある日本の再生を図ることを目的とする」とあり、これは被災地に限定して使う、という性質のものではなく、あくまでも日本国全体の再生を主たる目的としているが、その可決成立には社民党も賛成していた。要するに「意味が分かっていなかった」。

これだけでも普通、もしかすると、自分はこの仕事しちゃダメなのでは?くらい凹む。しかも公然と胸を張って、有権者の代表として国会の質問席に立ち、腐っても時の政権、居並ぶ閣僚に対してモノ申してしまっている。記録も映像も残る。普通の神経なら恥ずかしくて赤面してパニックになり、そのまま朝鮮総連にでも駆け込んで哀号と泣くところだ。

オチとしては、その復興予算。社民党の本部ビルにおける耐震調査費用として280万円が使われていた。よくもまあ、と感心する。

こういう連中はこの手の話がごまんとある。世にいう「ブーメラン現象」だ。

福島は東京五輪にしても「コロナの祭典」とかで反対していたが、これが森元総理の例の発言「女性は話が長い」みたいな、ちゃんと文脈をみてぜんぶ読めば差別でもなんでもないとわかることをして「こんな女性差別発言しかできないなんてとんでもない。こんな意識でオリンピックをやることそのものが問題である 」とツイートしている。

「おはようございます」だけで嫌われる蓮舫もこのとき、いい加減にしてください、として「オリンピック憲章『いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神』以前に恥ずかしいです 」とのことだった。

他にも多数、同じようなのがいるが、要するにこの連中の「NO」を知ってから、もうすぐ始まるとされる北京冬季五輪に対する「NO」を探すもどこにもみあたらない。さすがに「北京五輪、楽しみです。是非、観に行きたいです。とくに女子テニスが好きです」とは言えないから、まったく、なにも言わない、触れない、という手段に出る。これは地上波のテレビメディアや朝日新聞なども同じだ。

中国共産党に五輪憲章を当てはめてみることすらしない。物事を比較対象でみることをしない。明確なる自己矛盾を放逐して、特定の対象にのみ「NO」を振りかざす。慎重に吟味したり、公正に判断したりしない。つまり、信念など鼻からない。理念など元からない。この連中の言動はすべからく、なんらかの意図を持った「活動」であるという証左だ。だからそれを見抜く普通の国民からは嫌悪される。これも自明の理だ。


注意しなければならないのは、これらの亜種だ。たまに「NO」と「YES」を使い分けるという少し頭が良いのがいる。「NO」しか持っていないのに「能無し」とは薄ら寒いが、要するにこんなのはわかりやすいわけだ。いま、だれも「福島瑞穂を総理に」とかネタでも言わない。さすがの立憲民主党でも、この代表選、蓮舫も菅直人も出てこない。さすがにしんどい。

また、保守の人らは基本的に「人の話も聞く」。それに悪い人間が思い直して、真人間になっていく姿に喜びすらする。やっと気づいてくれたか、やっと思い直してくれたかと、安心してしまう。ある日、高槻で頭をぶつけた元衆院議員が「中国の人権侵害に断固抗議するやねん。日本はへこたれへん」とか言い出したら、ころっと信じてしまう危うさはないか。

口達者な金髪弁護士がテレビに出て、靖国参拝のなにが悪い、で大阪の保守は湧いた。そのあと大阪人の大好きな「なんでもズバズバ言う」で人気を博し、悪者の朝日新聞や毎日新聞の記者をやっつけ、国旗国歌を敬うのは公務員として当然、イヤなら辞めろ、として胸のすく思いをした日本人はいま、テレビで大人気の「無責任なコメンテーター」と自称する御仁を見て考えるべきだ。



玉木雄一郎氏は憲法改正について2012年には反対。2014年には賛成。2021年には「どちらかといえば」賛成だ。玉木氏が単なるうどん県の獣医師会副会長のボンボンならどうでもよろしいが、玉木氏はあの悪夢の始まり、2009年の初当選から政治家だ。国の根幹にかかわる政策に対する考え方が、およそ10年で3回も変わる政治家を私なら信用しない。来年には「反対」と言い出す可能性はふんだんにある。

長島昭久氏も細野豪志氏も、もちろん長尾敬氏も憲法改正にはずっと賛成だ。他の政策はともかく、安全保障の根っこに関する問題はふらふらしない。あの悪夢の創始者は沖縄の基地問題をして「学べば学ぶほど」と言って度肝を抜いたが、それは先ず、安全保障のことをその程度の認識で良いも悪いも言うはずがない、という日本国民の思い込みだった。ましてや、そんな程度の人間が一国の総理になっているなど想像もつかなかった。

まさに悪夢だったわけだが、過日の総選挙に出馬せず引退した菅野志桜里氏も以前から改憲派で「自衛隊を憲法上も『戦力』と認めるべき 」だった。自民党や安倍政権の悪口もやったが、それでも政治家としての足元、国民の財産と生命を護る、というところではふらついていない。

いずれにしても日本人の「人の好さ」には恐れ入る。自民党の総裁選でも「小石河連合」の敗退で安堵して、高市早苗氏の惜敗に悔しい思いをしたが、どこかで「結局、無難なとこに落ち着いた」で納得してしまっていた。総裁選も終わればノーサイド、あの日本端子株式会社の御曹司も選挙応援してたじゃないか、そこが左巻き政党と違う「自民党の良いところだ」。

いま、恐るべき新種が出てきたのかもしれない。「YES」も「NO」も持たない新種だ。賛成するでもない。反対するでもない。賛成したけどやらない。反対もしなかったがやる。得意は「聞く耳」とのことだが、話を聞くだけなら我が家の犬でも聞く。どれほどの時間でも目を見てじっと聞いてくれる。

総裁選のテレビ討論、この新種は「YES」と「NO」が書かれたプレートを縦に出した。「YES」でも「NO」でもない、という意思表示だった。その代わりに記者会見では「ノート」を持った。まるで朝鮮労働党の党員手帳のように持って「中身はみせることができませんが」と笑った。

じわじわ怖くなってきた。




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