忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

2013年新作・人情時代劇小説の話

2013年02月10日 | 過去記事


毎度のことだが、職場の婆さんが死にかけた。普段、元気なその婆さんは95歳。コミュニケーションも十分可能で、そこらの若い馬鹿より話がわかる。しかしこの数日、何となく元気がなく、すぐに「横になりたい」とか言い出したから、私もそろそろ「お迎え」が来るな、と予想はしていた。すると、やっぱり急変。あんまり来ない身内も集まった。面会を終えた「長男の嫁」は「もう最後だから顔を見に来た」と本音も言った。

貴重な話をする。

その婆さんは死にかけた。というか、5分の4くらいは死んでいた。漫画なら魂が抜ける絵が見えるレベルだ。「今日か明日」と経験豊富な看護師長も言った。なんと、その日の夜勤は私だった。ならば「逝くかもしれない」として用意もある。少々慣れたとはいえ心構えもいる。それに「変死扱い」になった夜勤明け、警察に事情を問われるのもお断りだから、頻繁に様子観察、記録もする。「死んでから発見」と「死ぬ直前に発見」では雲泥の差がある。死んだかどうかは医者にしかわからない。それに邪魔臭いのはイヤだ。

3時を回ったころ、その婆さんの部屋から物音がした。ベッド柵を動かしたような音だ。私は一心不乱に読んでいたR・R・トールキン著「ホビットの冒険」を置いて(笑)、居室に行った。そこにはなんと・・・断っておくが「老人施設・本当にあった怖い話」ではない。

婆さんはベッドに坐っていた。いわゆる「端座位」という状態だ。不思議でもなんでもないが、その婆さんは意識もほとんどなく、3日ほど食事も水分も摂らず、頭すら動かせなかった。バイタル測定の数値も「もうすぐ死ぬ」と言っている。そんな婆さんがいきなり、何の前触れもなく、突如として「自分で座っている」のである。これはちょっとだけびっくりする。そして「便所に行きたい」と発語した。私はポータブルトイレを用意して、座れるかどうかを確認する。すると、なんともまあ、普通に自力で立ったのである。

危なげなくトイレを済ませると、婆さんは私の顔を見て「腹が減った」。冷蔵庫からプリンを出すと、ぺろりと平らげた。「パンはないのか?」というから、未開封のパンを持ってきて渡したらぱくり。そして今度は「牛乳が飲みたい」。さすがに牛乳はどうかと心配になり、高カロリーの栄養補強食品(コーヒー味・不味い)をカップに入れるとごくごくと飲み干し、それから「ぷはぁ~」と一息した。私は「なんだそりゃ」と思ったが、すぐに「だいじょうぶか?」と問うた。すると、だ。

「死んだ」と言う。いやいや、マテ。生きてる。いま、プリンを喰ってパンを喰って、久しぶりに飲みモノも飲んだ。それに話している。いま、私と会話している。

私が取り乱すと、婆さんは冷静に「いやちがうねん、さっき死んだねん」とか言う。私は帰りたくなったが、最近、我が「りーちゃん&むーちゃん」はペット保険に加入した。その支払いもある。いま、怖いからという理由でクビになるわけにもいかない。

しばらく話すと要領を得た。つまり、婆さんは「死んだ」のだ。でも「生き返った」と言っているとわかった。本人曰く「ちょっとだけ“あの世”をみてきた」とのことだ。

さて、これはファンタジーである。さっきまで読んでいた「ホビットの冒険」は鼻血が出るほど面白いが、それよりもこの婆さんの「いま見て来た“あの世”」に勝るファンタジーがあるだろうか。これで小説を書いたらR・R・トールキンよりも売れるのではないか売れないかそうか。

しかも、幸運なことにこの婆さんは呆けてない。いや、正確に言うとそれは、ちょっとは呆けている。しかしながら、私のいる施設では「しっかりしているグループ」に属する困った婆さんであったのだ。私が自家用車で通勤していることも理解する。施設周辺の地理も知っている。職員の名前や顔も忘れない。ちゃんとトイレで排泄するし、失敗もない。食事はちゃんと「手で食べない(笑)」。なにより、ここが「老人施設」であるという前提でモノが言える。これはじゅうぶん、しっかりしている。

「ど、どんなだった?」

聞かずにおれなかった。すると婆さんは、ゆっくりと静かに語ってくれた――――






―――臨死体験、というのは往々にして「人生観」を変えるとかいう。評論家の山折哲雄氏もそうだ。氏は学生時代、十二指腸潰瘍になって吐血し、10間ほど生死の間を彷徨い「臨死体験」をした。それまでは「死んだら終わり」という無神論者だった氏は、死後の世界はある。あるんだからしょうがない、とGメンのボスみたいなことを言い出した。

同氏は国立歴史民俗博物館名誉教授とか総合研究大学院大学名誉教授とか、その他諸々「肩書きの100円ショップ」みたいな素晴らしい御仁だが、京都在住の私としては無視できない「京都新聞大賞」も受賞している。なんで受賞したのかは知らない。

そんな氏の有り難くも素晴らしいコラムが京都新聞にあった。「天眼」だ。天の眼である。全国紙の中には「天の声を人の語」に直してくれた有り難い看板コラムもあるが、こちらは「天の眼」だ。天の眼を通して見たモノを、我々のような常鱗凡介、ひとやまナンボの凡人に教え導いてやろうという天の御意志である。

また、山折氏といえば昨年、日経新聞にあった「東北は早くも忘れられている」と題した記事で<今回の大地震は、はじめ、「東北地方太平洋沖地震」と命名されていた。ところが、いつの間にか「東北」がそぎ落とされ、「太平洋」も使われなくなった>と案じてから、その原因を<これは、東北切り捨て、東北差別の象徴的な意識の表れではないか、と思っているんです。東北を見下してきた長年の歴史認識が、無意識に息を吹き返したように思える>とした差別意識丸出しのコラムで度肝を抜いた。べつにどこのだれも「東北を切り捨てた」とか思ってもいないし、いまでもテレビ新聞は「東北大震災」と報じているし「東北の被災地では」とかニュースでもやるから、山折氏自身が「東北を見下している」とバレただけのことだった。

そんな自爆大好きな山折大先生のことだ。ならばならば、それはもう、この度も後光が射すほどの崇高なコラムに違いないと思い、夜勤の最中、襟を正して読もうとしたが襟がなかったから普通に読んだ。

タイトルから興味を引く。「祖国はありや」である。一瞬「祖国はありゃ?」かと思った私が在日根性なのである。ありゃりゃこりゃりゃ?なのである。ありらんこりらんなのである。そんな平凡パンチな私はさておき、山折氏は<敗戦の年、私は旧制中学の2年生だった>と語り始める。1931年生まれだったらそらそうだ、とか言ってはいけない。ちゃんとこのあと<それまでの私は比較的まじめな軍国少年だった>と告白している。さあ、いまからそれを反省するぞ、という意気込みが感じられる。そして案の定<それ以後は、いつのまにかグレだして、教師から鉄拳制裁をうけることが多くなっていた>と「体罰問題」にも触れる。そこに寺山修司の短歌を持ってくる。「空には本」からだ。

マッチ擦る
つかの間海に霧ふかし
身捨つるほどの
祖国はありや

山折氏は<その少年のころから、どれくらい経ったのか>と書いたあと、この短歌に出会って<心が震えるような衝撃を受けた>と続ける。京都新聞の編集者が入れたのか、このコラムにも説明書きに「空には本」が出たのは昭和33年、とある。(その少年時代から)<どれくらい経ったのか>には13年と答えるしかないが、とくに痴呆症の初期症状を気にしているわけでもなさそうだ。その証拠に<東北なまりをつよく響かせる作者が>と、また東北を馬鹿にしてから<私は27歳になっていた>とか、ちゃんと自分の年齢も計算できている。真夜中の私は安心したモノだ。

それから山折氏は自分に問うのだった。<祖国のために犠牲になることがおまえに出来るのか、という問いだった>である。それに対して<とっさに否定することも、確信をもって肯定することもできない自分が、そこにはいた>と格好良く書く。さて、ここで私はある疑問を持つ。「敗戦の年」とは昭和20年のこと。山折氏は<比較的まじめな軍国少年だった>わけだ。それから<それ以後は><いつのまにかグレだして><教師から鉄拳制裁をうけることが多くなっていた>と書かれていた。読み返したらそう書いてある。普通に読めば敗戦の年までは比較的、真面目な軍国少年だったけど、それ以後はグレだしたから教師に鉄拳制裁された、と読める。私の国語力から言うと、山折氏が「グレた」という原因とは、比較的まじめな軍国少年でなくなったから、と読むのが正しい。それなら<衝撃をうけた>とされる寺山修司の短歌の引用にもつながる。

それなら、ここでわからなくなる。この世代の多くは「敗戦の年」から教師が豹変したと口を揃える。だから多くの「昨日まで褒められた軍国少年」は戸惑っている。急に教師は「平和」とか「人権」を言い出した。「日本の国策は誤っていた」とか言うから、軍国少年は「戦争に負けるということはこういうこと」と理解し、社会や組織、教師や大人の変容ぶりを見下し、多くのニヒリズムを生み出した。それに公職追放もあった。連合国最高司令官覚書によれば「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」とある。その「公職に適せざる者」には国家主義者、軍国主義者も含まれた。つまり、山折氏が「祖国のために死ねるのか」と疑問を呈し、つまり「グレた」というような生徒を「御国のために!」とか鉄拳制裁するような教師のことだ。

それなら順序がおかしいだろう。この世代の多くは逆にとらえている。山折氏のような場合は戦前戦中なら鉄拳制裁の対象、戦後なら褒められる対象だ。実際に褒められたから、いま、持ちきれないほどの「肩書き」もあるんだろう。典型的な左側の出世コースだ。

そして還暦になった山折氏は若い世代に問う。<国のために命を捨てることができるか>だ。それに対して若い世代からは<そんな気分になったことはほとんどない、という主旨の答えが返ってきた>とのことだ。そしてふたたび<それでは何のためになら命を捨てることができるのか>。その答えは<家族のためならできるかもしれない>。

山折氏は<国のために犠牲になるなど、真っ平御免、というものだった>と結果報告してから<なるほどと思わないわけにはいかない>と肯定してみせる。なにが「なるほど」なのかと思ったが、それは無論、国とは最終的に家族のこと、国が滅びてしまえば家族も無事では済まない、という常識かと思いきや、なんとも<私などもいざとなれば怖じけづいて、同じようなことを言うかもしれない>と納得。それから<国とか祖国という言葉のもつ重さはいったいどこからくるのだろうか>と悩んでから<だんだんそれが黒い霧のように頭上に拡がってくる>とか危ういことを言う。いるかいないか知らないが、少年時代の山折氏を鉄拳制裁した教師も草葉の陰で泣いている。

この御仁<衝撃をうけた>という27歳の時から何も変わっていない。なぜに「祖国」と「家族」を分離する必要があるのか。家が燃えても家族は死ぬ。無事に脱出できればよろしいが、国が燃えたら逃げるとこなど無い。だから都市空爆で何十万人も日本人は死なねばならなかった。だから国際法は民間人への攻撃、あるいは無差別爆撃を禁止しているのではなかったか。

たしかに戦後、GHQは前代未聞の国家実験、政府と国民を切り離す憲法を押し付けた。しかしながら、現代の我々など、戦後骨抜き教育をどっぷり受けた世代はともかく、そのとき<中学2年生だった>ならば、それなりに物事はわかっていただろう。戦後に垂れ流されたGHQの手前勝手な言い分など、山折氏と同世代の御仁はあっさり見抜き、NHKも教科書も嘘だらけだと知っている。その声はだんだんと大きくなり、いまやマトモな論者がマトモな場所で語る必要もないほどだ。山折氏がそこまでマッカーサー憲法に媚びを売る動機は何なのか。それとも鉄拳制裁された、は本当に出来が悪かったからではないかと邪推する。

山折氏はかつて、オウム真理教の麻原と対談した際<宗教集団としては、最後まで俗世間の法律は無視するという手もあると思うんですよ>と述べている。たくさんの賞をもらい、たくさんの大学で名誉教授となる宗教家が「非合法」を勧めている。恩師の鉄拳制裁でどこかのネジが緩んだのか、要するにおかしなことばかりでメディアに使われている。

それに寺島修司の解釈。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖國はありや」を読んで「祖国のために身を捨てるとかどうよ?」しか見出せないのも悲しい。「ありや」は「ありやなしや」の「ありや」だ。連語だ。使い方は「あるかないかわからない」という様を表す。つまり、私の解釈ではあるが、寺島修司は「身を捨てるほどの祖国なんぞあってたまるか」と左巻きを言いたいわけではなく、身を捨てるほどの祖国はあるのかないのか、それすらもわからなくなった、と沈んでいるのだ。なんでないんだ?なんでわからないんだ?と嘆いているのである。なぜというに、それは祖国とは故郷、故郷とは共同体、共同体とは家族、家族とは祖国だからだ。これがわからなくなった世の中に対して、ふとマッチを擦ったとき「霧深い暗い海」をみるような想いが過った(久代千代太郎の解釈)。

山折氏が「死後の世界」を肯定するのは「そのほうが人間の生き方が豊かになるから」としている。半分だけ共感する。残りの半分は「死んだ人間は生きている」からだ。寺島修司の言葉に<生が終わって死が始まるのではない。生が終われば死もまた終わってしまうのだ>がある。山折氏にはこの言葉にも<衝撃をうけた>と言ってもらいたい。

この言葉も私なりに解釈すると、<生が終われば死もまた終わってしまう>とは決して「消えてしまう」という近代ヨーロッパ的な宗教概念からの言葉ではなく「生が終われば生死は関係ない」ということ。超越しているということ。既成の死生観など通じないということだ。つまり、生とは死のことである、死は生のことである、と表裏一体を言っている。

山折氏は京都新聞のコラムの最後、同じことを主婦にも問うている。主婦はもちろん<国のためになんか死ねない>と言って、山折氏にまた「なるほど」と思わせる。それから「家族といっても旦那のためはイヤ」とか笑う。しかし、そこで「子供のためなら死ねるかも」という女性がいたそうで、山折氏はその瞬間のことを<とたんにその場には自嘲ともいえるような微苦笑のさざ波がおこったが>と表現する。

どこの左巻き団体の会場か知らんが、母親が自ら生んだ子を護るために命を捨てる、という言葉が出たときに自嘲?微苦笑?そんな不細工な<さざ波>が発生するか普通?

あり得ない。そしてそれこそが寺島修司の言う<つかのま海に霧ふかし>だ。つまり、霧が深いから馬鹿には見えていない。しかし、本当はその霧が晴れたら「そこ」にある、と寺島は教える。山折氏から問われた連中はひとりも「自分だけが生きていればいい」とは言っていない。戦後、日教組はそう教えて来たはずだ。「命は大切」「命はひとつしかない」「生きていればオンリーワン」と刷り込んできた。それでも問われた連中は「家族のためなら」「子供のためなら」と答えてしまっている。そして実に無意味なのだ。要すれば「国のために」と言っているに等しいからだ。「北海道のためなら嫌だけど、沖縄のためになら死ねる」がヘンなように、要すれば札幌も那覇も同じ日本国だ。

「マッチを擦った」くらいでは見える範囲がしれていた。でも、霧が晴れれば大海原が見える。綺麗な海はそのまま、そこにある。「命を捨てるほどの祖国」があるかないか、わからない連中の足元にも祖国は拡がっている。それは皮肉にも山折氏が「天眼」で証明している。さすがは「天の眼」である。なるほど、とても感心したのである。







―――――「さんたろう?」

婆さんは静かに語ってくれた。

「さんたろう」がおった。だから“あの世”に行ったと思った―――

「さんたろう」??「ももたろう」とか「きんたろう」とか「のんたろう」じゃなく?

「さんたろう」がおった・・・・あたしゃ、死んだんだ。あっちに行ってたんよ―――

だれそれ?旦那さんは違うし、息子でもないし・・・・おとうさんとかおじいさん?いやしかし、それなら「さんたろう」とは呼ぶまい。まさか「いぬ」??

ねえねえ、さんたろうって犬?

「さんたろう」は「さんたろう」なんよ―――

ねえねえ、光が見えたとか、真っ暗な闇の中を落ちて行くとか・・・・そんなのない?

「さんたろう」がいるとはね、まさか“あの世”にいるとはね―――

ねえねえ、か、漢字は?さん?三でいいの?ねえ?ちょっと、死ぬ前に教えて、ねえ?

「さんたろう」――――

ねえねえ、ちょっと死なないでね、まだ。さんたろうって「うどんやさん」?ググればいいの?ねえねえ?割烹?ねえねえ?あ、ちょっとマッテ。閃いた。



「夢現(ゆめうつつ)三太郎」人情時代劇小説。書いたら売れるか売れないかそうか。




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