忘憂之物

なぜか、たぁらこ~♪はスルーの妻。

GWの昼下がり。妻と倅が何気なく話している横で、私はコーヒーを飲みながら新聞を読む。天気もいいし、風があるから涼しい。ベランダで犬とウサギが遊んでいる。出勤前の呑気なひとときを切り裂いたのは、倅のこの質問からだった。

「なぁ、ふかひれの“ふか”って、なんやったっけ?」

妻は答える。堂々と、且つ、平然と。

「セミやんか。セミ。」

私は吹き出したコーヒーを鼻腔から垂れ流したまま言う。

『セミ??ミンミンのセミ?』

「あ、ちゃうわ。サメやん。サメ。」

妻曰く、こういうのは

「言いそこ間違い」

というらしい。

代表的な「言いそこ間違い」を紹介しよう。

仕事先から電話で『今日は鉄板焼きにしようか?ホットプレート出しといてな?』と言って家に帰ると「ホットカーペット」が引きずり出してあった。理由は「寒いのかと思った。」である。終戦記念日の2日前の出来事であった。でも、これはよく考えると「言いそこ」は違ってないと思う。

夜中に電話が鳴る。妻からだった。出ると涙声になっている。どした?なんかあったか?

「カタカナの“へ”とひらがなの“へ”の違いがわからなくなった。」

つ、妻よ、同じでいいんじゃないかな・・・?

「それに“ゆ”が書けないときがある。」

そ、そうか・・・。これから“ゆ”を書かなければならないときは電話しなさい・・・。

買い物先の妻と倅に電話で頼む。

『あ、そうそう、薩摩白波を買っておいて。』

しばらくすると倅から電話。

「お父さん?いつもの焼酎のことやんな?白波?」

その通りなのだが、どうやら妻が店員さんを困らせていると言うのだ。

「“さなましらなま”をください!!」

酒の詳しくない倅も

「今日はお父さん、違う酒を飲むのかな?」

くらいに思っていたのだが、妻があまりに“白波”に近い銘柄を口にするので「もしや」と思い確認したのだ。

それに、妻が大好きな「CMソング」だが、ほぼ100%、完璧に間違えて覚えて歌う。もはや、最近「烈海王」に酷似してきた私のオカンと同じである。「大阪のおばはん」というカテゴリに属すると例外なく患う病なのだろうか。あっ、ほら、「タケモトピアノ」のCMが・・・妻が歌っている・・・。

「♪でんわぁ売ってちょぉだぁ~~い♪」

もう、いきなり、ピアノは関係なくなっている。

いくら私が「タケモトさんはピアノを売ってくれと言っているんだよ?電話を売ってくれとは言ってないんだよ。」と説明しても無駄である。もう何を言っても

「モットモット!!タケモット!モット!!」

と言って取り合ってくれない。それにそう言いながら踊っている踊りは「のりお」の「ツクツクホーシ」にそっくりだ。まったく関係がない。

そして、いちばん気に入っているという「ハナコアラ」でさえもこの始末である。

「みっなおそうぉ!♪みなおそうぉ!でんわっ!♪みなおそうぉ!みつもりっ!♪」

まるで「電話の見積書を見比べて、現在の電話機をどうするか」のような歌になっている。もう自動車保険は関係ないようだ。それに、ナンボほど「電話好き」なのだ。

それに、私が最も憂慮しているのは・・・

あ、そうそう、なんかこっちも大変らしいな。
http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070430/gkk070430000.htm
<【大丈夫か日本語・上】大学なのに…中学生レベル6割!?>

<「ついに、ここまできたか…」>

・・・・・(笑)。

<想定内の質問もあったが、就職を控えた女子学生が発した言葉には耳を疑った。「骨が折れる仕事は嫌です」という文章を指さし、「『骨折する仕事』が嫌なのは当たり前。違う意味があると思ったので…」と首を傾(かし)げたのだ。>

「骨折する仕事」・・・・(笑)。

そんなん、TBSのバラエティ番組だけだっ!!

<小野教授は「『(大学)全入時代』が到来し、外国人留学生と同等か、それ以下の日本語力しかない学生が出てきた。言葉の意味を学生に確認しながらでないと講義が進められない大学も少なくない。テスト利用校の急増ぶりに、大学側の危機感が表れている」と語った。>

留学生と同等か、それ以下・・・。

そこの管理職のあなたっ!!

もはや「敬語が使えない若者が・・・」と嘆いている場合ではございませんっ!!

それに不自由なのは「日本語」ではなく「言語」そのものですし、合わせて社会的な所作なども身についているどころか、ちょっと賢い犬には負けまするっ!

「弱っちい原始人」のようなもんですなっ!どわははははっ!!

と、私も笑っている場合ではなかろう・・・。

だから私が思う原因を書く。あくまでも主観だが。

上澄みだけを掬い取れば「民主党」の言う通りだった、ということである。先ずは「格差社会」に代表される「教育の平等性」が失われた、ということであろう。あくまでも「上澄み」だけであると念を押すが、やはり「二極化」された教育の問題を先ず指摘しておく。

「ゆとり教育」というものがあった。今年の新入社員はいよいよ「ゆとり教育第一期生」が社会に排出される。ここにひとつ目の矛盾がある。

それは「格差」を生み出したのは「ゆとり教育」が一因なのであり、その観点からすれば「民主党は何を言っているのか?」ということになる。小泉内閣は「格差の何が悪い!」と居丈高に謳った。格差はあって然るべきであると、エリートの足を引っ張ってはいかんと、自己責任であると、悪平等は活力を奪うと叫んだ。これも「上澄みだけ」賛同する。

「手をつないで全員が一等賞」が自由経済社会で生きられないという理屈はわかる。そりゃそうだ。嫌でも社会に出れば比べられ、評価され、勝ち負けは明確になる。そして、現在日本においては「勝たなければ」自活することさえ難しいのだ。それは身に染みている。

すなわち「ひとつ目の矛盾点」とは、

“競争心を奪っておいて、血も涙もない競争社会に放り出す”

ということである。当然に大量の敗者が発生する。いや「闘っていない」から敗者ですらないのだ。極論で言えば、敗者ならば大いに結構なのだ。

「勝者になりたくない者は敗者にもなれない」

のである。これは意識していたほうがいいと思う。

だらしなく冷たい家庭環境と自由教育という名の「ほったらかし」の中、子供たちは活力を失い、競争力を失い、将来の目的は「二極化」する。そう、「勝つのか負けるのか」という究極の選択を強要されるのである。そして、大事なことは、そこに「自分だけの力ではどうしようもない」という要因があり過ぎるのである。そこで「機会の平等」という話になる。

そして、その「機会」を得られなければどうなるのか?ここが問題であろう。

「リタイア」するのである。早くも。若くして。

「平凡に生きる」という「目標」の価値を下げた罪は重い。誰の援助も受けず、少なくとも社会のために何かをする、ということができないのである。そして「敗者」ではないから、「敗因」も「打開策」も考えることはない。むしろ開き直り、正当化する。それが今の若者たちの現代病、精神疾患である。そのネガティブ思考を気付かせないためにするのが「ゆとり教育」の「個人主義教育」であったわけだ。勝谷氏が忌み嫌う「オンリーワン思想」とでも言うべきか。

「負けていない。勝負していないだけ。」という者は、いわゆる「オレ様化」してしまい、いい年して税金も払えないのに、まだ偉そうに、もったいぶって将来を決めあぐねる。

夢をみてれば現実を考えなくていいのだ。親がいれば飯も喰えるし、雨風も凌げる。

親がいない者や、親に経済的余裕がない者は、最低限、自分だけが生きられるだけの糧を得る。刹那的な思考は将来的な不安を忘却の彼方へと追いやる。

そうでない者、つまり「教育の機会」を得た者は、自分の将来を高いところに安定させるように懸命な努力をする。自分のために。あくまでも自分のために。もしくはゆとりある経済力を身につけるためだけに。その弊害が上記の記事である。

ふたつ目の矛盾である。

「勝者が勝者足り得ない」のである。欠陥がある。「勝利の条件」が満たされていない。

それもそのはずであろう。

「敗者がいない」のだから。

「勝者とは敗者がいるから成り立つ称号」である。だから「勝者」の自覚はない。いや、だからこそ「勝者」としての意義など理解できるはずもない。そのような状況で、ノーブレスオブリージュの欠落を嘆いてみても詮ない話である。

今の「格差教育」とはつまり、政府の「インチキサバイバル教育」なのである。生きるか死ぬかという重大で過酷な状況を作り出し、そこに子供たちを放り出す。ある者は裸で何も持たせず、知識も与えず。ある者は食料からテントからあらゆるサバイバル用品を具備しているのである。結果は明白であろう。

すなわち、ふたつ目の矛盾。

“勝ち組負け組と言いながら、本当は生き組み死に組である。”

そうであれば「死に組」が「生きていればそれでイイ」と目標設定を低くすることは不可抗力であり、更に定期的に上空から最低限の物資を落とすとなると、もはや「脱出」を考える者は稀少であろう。そこで死ぬまで生きているだろう。

「やる気のない遭難者」。最悪である(笑)。

そして、「格差」とは「あるかないか」という両極端な状態を表す言葉ではない。あくまでも「ある」状態を前提とした「差」というものの意味である。その「差」が著しく離れた場合、もしくは「ない」という状態がみられるとき、普通は「有無」で表すのだ。

今、日本社会で言われる「格差社会」とは「勝者」と「敗者」が乖離した状態、つまり、「有無社会」であり、そこに競争原理の屍がころがっているのだ。

ガキが一人前の消費者になったつもりで偉そうにするのは、もはや仕方がないのかもしれない。「言葉」を知らないから「思考」ができない。コンピューターのように「記憶」から成り立つ「応用」も難しい。だから、ちょっと理屈で振り回すと反論もできない。大概がぶち切れて終わりである。

安部さんが、急ピッチで「教育再生改革」を進めることは理に適っている。先ず、「社会への出口」の見直しを考えるということもその通りである。

ガキに「個性」なんぞと、あまい菓子を与えるでない。そんなもの、誰にでもあるわけがない。基本ベースも出来上がる前に「特色」なぞ意識せんでよろしい。そんなもんは勝手に出てくる。

先ずは「普通の日本人」を目指せ。

「普通の社会人」を目指せ。
「普通の大人」を目指せ。
「普通の親」を目指せ。

そのハードルは低くないぞ。

こらっ!クソガキども!!

ウダウダ言わんと「普通」を目指せ。

「普通」は最高だぞ!!
「普通」は難しいぞ!!

人生が終わってしまうことを恐れてはいけません。人生がいつまでも始まらない事が怖いのです。
byグレース・ハンセン



あ、そうそう。

私が妻の言動で最も憂慮しているのは、ハゲリーマンさんのことを

「ハゲマン」

と言い切るところだ。

いくら言っても間違える。

そんなあっさり失礼な・・・。もしくは、なんか剥がれかけのアンマンみたいに・・。

悪気はないのだろうが・・そんな「安もんの小学生」が3秒で思いつくような・・・。

頼むから本人に言わないでね。ここに書いたのも内緒にね。
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