忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

納豆カレーは認めてもいいのだろうか 

2009年10月18日 | 過去記事
■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 1

去年くらいから、妻の作るカレーがヤバい。

今だから告白すると、付き合った頃に作ってくれるカレーは、ちょっとアレだった。しかし、そこは友愛の力。美味しい、こんな美味しいカレーは色んな意味で喰ったことがない、いや、それにしても「西日本のキレンジャー」と言われる私を唸らせるカレーを作る素人がいたとは、この日本もなかなか奥が深い、さては、もしかして、キミはインドの山奥で修業したことを隠しているのではないかい??このスパイシーながらもマイルドな味わいを、まさにレインボーマンな感じのアレではないか。もちろん、お、おかわりだ。

などと苦しいながらも褒め殺しておいたのだが、なんというか、「粉っぽい」感じがしていた。しかし、この14年間、何度となく出てきた「妻のカレー」に対し、自覚症状すら与えない「ダメ出し」をしながら、少しずつ少しずつ、遠まわしに、あるいはダイレクトに、もしくは角度を変えて、あるときはさりげなく、それとなく、「こうしてほしい。こういうカレーにしてほしい」ということを伝えてきたのである。そして、最近ついに、妻はカレーに「覚醒」したのだ。名付けよう。そして与えよう。この栄誉を。

「我が家の美味しいカレー」

妻はこの「在日マザコン」である私の「母の味」を超えてしまった。しかも、マザコン男における「究極の母の味・カレーで」である。

「卵焼き」や「味噌汁」、ましてや「おでん」ではないのだ。口説き始めのキャバ穣が「わたしぃのぉ、作ったカレーって、ちょーおいしいですよぉ♪」と言ってさえ「ふざけるな。オカンのカレーには敵わない。」と言い放つほどの「おふくろの味」である「カレーで」である。

「うちの嫁はんのグラタンは最高。でも、カレーはお母さんだな」というのが男の常識であったはずだが、我妻は、とうとうこれを覆したのである。そして、そんな「男の価値観」のひとつである「カレー」を貶めるような記事を発見した。我が社の営業部社員(特命営業部工作員)からの情報だ。

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■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 2

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/128045
<東京タワー、「友愛カレー」登場 11月末まで>

なぜに「友愛オムライス」にせぬのか。まったく、いちいち腹立たしい友愛である。

「カップルや友人で食べてもらおう」ということで、量は2人前、値段は2500円だという。「you&?@」で友愛だという。カップルはともかく、男一匹、ひとつの皿のカレーを「男同士で分けて喰らう」などいかがなものか。そんな感じで「友愛の海」に浮かぶ領土も「分けて喰らわれている」ではないかという今日この頃、カレーは嬉しいんですけど、つい食べ過ぎてしまうんですな。「食べ過ぎ&飲み過ぎ」はダメだと言いながら、カレーは作ってくれるし、誕生日には倅も娘も妻もウィスキーを買ってくれます。もちろん、私が死んだら保険金がたっぷりと・・・はっ!!

い、いや、そんなことを考えては友愛に反する。信心が足らんのとちゃいますか、ゆうあいゆうあいゆうあいなんまいだーゆうあいだーなんまいだーけんきんだー・・・・

・・・・・ふ、ふぅ・・・ちょ、ちょっと落ち着いてきた。トロをあぶってくる。

ンで、その「友愛カレー」。食べた家族連れの感想だ。

<家族3人で食べた東京都の会社員蟹江乾道さん(33)は「マイルドな口当たりで鳩山さんのイメージにぴったり。いろいろな味があるのは連立与党みたいな感じだ」と話した>

エライウマいこと言う素人だな(笑)。「連立与党みたい」ってかww

しかし、注意せんと「具材が腐っている」かもしれんぞ。もしくは「入れてはいけない材料」が入っているとかね。ま、あんまり言うと、この「カレー屋さん」に失礼だからやめとくがね。ま、でも、商品コンセプトやネーミングセンスは最悪だね。個人的評価だがね。

「3」へ、だがね。

■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 3

また、「カレーのすごいところ」は「どんな食材でも合う」ということが言える。少々の好き嫌いなど、あの魔法のカレールーをかければ喰えたりする。肉や野菜、魚や貝類ももちろん相性がいい。しかも、ご飯やパンにも合うという優れモノだ。

また、最近では「カレー鍋」というジャンルも定着し始めている。白菜や春菊など、およそ「カレー味」では食さない食材までが喰われることになった。これが存外に美味い。酒も飲めたりする。

また、「トドカレー」や「サバカレー」など、食材にクセのある肉類や魚介もなんなく「カレー」にしてしまうことも何気にすごい。よく考えてみるまでもなく、「ビーフカレー・ポークカレー・チキンカレー」と牛豚鶏、この食肉御三家を完全に手中にしているのも改めてすごいと感じる。

それに「カレーうどん・カレーラーメン・カレーパスタ・カレーそば」などの麺類すら制覇している。または「カレーピザ・カレー焼き飯・カレーまん」などのランチやおやつにすら、圧倒的な存在感を示すのである。完全無欠のオールマイティ、みんな大好きカレーである。しかし、だからこそ、「合わない食材」を探してみたくなる。

私の中の「カレーに合わない食材ベスト5」を発表しる。

第5位:アイスクリーム
第4位;あんこ
第3位:果物(生)
第2位:キムチ
第1位:刺身

ということで、民主党がカレーならばアウトだ。だって「キムチ」が入っている。よく探せば、もっといろいろ「合わないもの」が入っているし、なにより「ルーが腐っている」のだ。毒入り危険食べたら死ぬで、あ、もう食べたの?である。

そんな日本の「毒入りカレー」民主党に対する「毒抜き」をしようと、17日に決起集会が行われた。行きたかったが都合が悪かった。また「口だけ保守」と言わないでくださ・・

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■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 4

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091017/stt0910171934004-n1.htm
<「日本解体を阻止せよ」保守派議員が総決起集会 政権への批判続出>

約1400名が集まったらしい。批判内容についても、まさに我が意を得たり、その通りだと思う。そして、こういう動きはもっと活発になるだろう。無論、事情が許せば、私も積極的に参加したい。大阪でやるときは「虹の会」も全力で参加させてもらいたい。

ンで、こういう日には必ず「ぶつけてくる」のも売国左派の特徴である。もちろん、朝日新聞はそちらを取り上げる。

http://www.asahi.com/politics/update/1017/TKY200910170401.html
<700人が「反貧困 世直し大集会」鳩山政権に対策訴え>

人数が半分だとかは言わない。それこそ「700人だったらなんなんでしょう?」ということだ。しかしまあ、どちらも「鳩山政権に訴える」ということがテーマだが、その内容があまりに違い過ぎることも面白い。

ざっと言うと、保守議員が集った決起集会は「日本の国のために!」というのがテーマだ。比して、朝日が大々的に取り上げる「世直し大集会」とやらは、あくまでも「母子加算を早く復活させろ」とか「早く高校無償化にしろ」など、言わば「個人の問題」を国になんとかしろという種類のものである。

国家戦略室の政策参与になった極左、湯浅誠はさっそくにも「仕事」をしている。この闘士は拳を振り上げ、不労収支を貪ろうとする「逃げ犬(負け犬ではない)」をオルグしようと頑張っている。それがもう「国の金」で活動できるのだから、無念ながら、今のところは彼の勝ちだ。政府打倒の一端を担っている左派エリート闘士であろう。

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■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 5

エリート闘士は声を枯らせて言う。

<政府は、貧困対策を重点施策に位置づけ、人の暮らしを守る政策に優先的に予算を配分すべきだ>

なるほど。「貧国者に優先的に」ということだ。麻生政権の定額給付金をして、当時の野党「民主党」が「バラマキだ!」と批判していたのは「所得制限がない」という部分を問題視した議論もあった。なるほど、「子供手当」もコレも確かに「バラマキ」ではない。

この「ばら撒く」という言葉は「種を捲く」というところからきている。スポーツのトーナメントなどで「シード権」というものがあるが、つまり「SEED」とは「種」のことだ。トーナメント全体の「バランス」を考慮して、調整を取れるようにしたのが「シード制」である。だから楽天は2連勝して盛り上がっているのだ。

テレビではもちろんやらないが、マトモな新聞や書籍などを読むと、麻生政権が「経済を刺激するため」として定額給付金を「ばら撒いた」のはケインズ理論の「富の再配分」のことだという説明もあった。つまり、(経済における)全体的な調整のために、経済効果だけを優先させて12000円を「再配分」したわけだ。もちろん、マスコミは認めないだろうが、その効果がなかったわけではない。

その理屈からいえば、子供手当も弱者救済も「バラマキ」ではない。すなわち「調整を図る類のもの」ではないのだ。あえて言えば「バランスを壊す」可能性のある政策なのである。無論、彼らは「壊すこと」が目的だからそれでいいのである。ある意味、不可抗力的に発生する弱者を、無理やりに引き上げて「バランスを壊す」ことは危険なことかもしれない。すなわち、問題はこの一点だ。

「平等と公平」のバランスが壊されることになる。

話は単純だ。会社でも、よくする話だ。この日記にも書いたことがあると思う。

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■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 6

例えば、「リンゴ畑」に働きに行こう。サンシャイン牧場ではない(笑)。

AさんとBさんCさん、そして農場主の4名がいる。「リンゴの木」からリンゴを取る。AさんとBさんは懸命に働いている。結果としてAさんは「30個」Bさんは「20個」のリンゴを取ってきた。農場主には「1割」を渡さねばならない。Aさんは「3個」Bさんは「2個」のリンゴを農場主に渡し、それぞれ「27個」と「18個」のリンゴを得た。

問題はCさんである。「足が痛い」とか「腰が痛い」と言っては働かない。もちろん結果は「ゼロ」だった。牧場主に1割の支払いもできない。しかし、とくに農場主にも損はないから、そのままCさんは肩を落として帰ったとする。

帰り道、CさんはAさんと出会った。手ぶらで帰るCさんを哀れんだAさんは、自分のリンゴを「5個」だけあげた。そして、「もっと頑張ったらリンゴは取れる」とも言った。次の日、Cさんはちょっとだけ頑張った。結果は「2個」取れた。農場主は2個しかないならもらえないと許してくれた。その代り、次からは最低でも「10個」取れと言うのであった。

次の日、Aさんはついに「100個」取ることに成功した。寝る間も惜しんで「リンゴの取り方」を考え、一度にたくさん運べるようにと「リンゴを売ったお金」で車も買った。いずれは農場主になりたいと言う。Bさんは相変わらず、マイペースだ。着実に20個を取り続ける。Cさんも相変わらずだ。いつもゼロか1~2個だった。農場主はそれでも許してあげていた。農具も貸してあげたし、ときには逆にリンゴをあげたりしたし、アドバイスもしていた・・・・

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っと、まあ、これが「公平」だ。最低限の義務を果たしながら糧を得て、しかも向上心がある者は伸びて行く。つまり、生活も安定して豊かになっていく。しかし、この牧場主を支えているのはAさんとBさんであることは言うまでもない。キツイ言い方だがCさんはお荷物なわけだ。どのようにCさんを擁護しようとも、もしくは「いかなる事情があろうとも」これは事実である。AさんとBさんの労力が無くなれば、農場主は生きていけない。

そして平等、すなわち、この場合は「悪平等」だが、コレは単純に「取れたリンゴを3等分」するわけだ。先ほどの例ならば「50個のリンゴ」から、先ず、農場主が20個取る。そして残った30個のリンゴを3名で10個ずつ分けるのだ。そして、この農場主の状況によって、ときには41個取られることもある。残るのは9個だから分ければ3個となる。

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■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 7

ならばこの「リンゴ農場」はどうなるか。

先ず、最も能力の高いAさんが去る。負担がかかるBさんも去る。農場は潰れる。もしくはAさんとBさんがCさんを責める。そして後に武装蜂起して農場主を殺す。つまり、わかりやすい「民主主義と社会主義の差異」だ。これを発展させて考えると、いずれは「Cさんが使う農具の費用を負担しているのはAさん」だとかの議論になる。そしてその「Cさんの働けない(能率が低い)理由」が論点となるだろう。無論、Cさんのサボタージュであれば話は早いのだが、あれやこれやと「屁理屈」は思いつくものだ。

また、色んなルールが作られて試され、試行錯誤は繰り返されるだろう。「たくさん取れる能力のある人が負担するのは仕方がない」とか「Cさんも頑張っているんだから、農場主もAさんもBさんも支えるべき」とか「30個までは1割だが、50個の人は2割負担」など、その度に喧々諤々、様々な議論がなされつつ、色んなルールが作られていく。

バランスシートは「損をする人得をする人」だけでなく、この農場で働く意義や分け与える重要性、あるいは「そもそもリンゴとはなんなのか」という哲学的な論考までを巻き込み、いずれにしても「完成」などはみられない。この「リンゴ農場」も、その時代、その状況を踏まえて臨機応変に対応していくことだろう。ハリケーンでリンゴの木が吹き飛ばされたら、いくらAさんといえども収穫はできないし、いつも呆けていたCさんが画期的な農薬などを開発する可能性もある。だからバランスを調整する「seed」が重要だ。

となれば、だ。

危険なのは「単純に弱者を決める」ということだ。そうなれば、すべてのバランスが崩れ始める。不平や不満は爆発的に増し、倫理観は崩壊する。すなわち「働くこと=損なこと」という驚異のアンバランスが蔓延し始める。先ほどの例で言うと「Aさん」がいなくなる。無論、「Cさんにリンゴを分け与えるAさん」もいなくなるのである。

「8」へ

■2009/10/18 (日) 納豆カレーは認めてもいいのだろうか 8

どころか、リンゴ農場のCさんは「Aさんは27個あるじゃないか。オレだって生きているんだ!」と言い出しかねない。「生きている」のは誰も同じであるのに、である。

このエリート闘士は「リンゴ農場」の秩序を壊そうとしている。それも意図的に、計画的に、情熱的に、である。Cさんには決して「がんばって見返してやりましょう」などとは言わない。Cさんが頑張ったら、この極左闘士は存在理由がない。

こいつらは「弱者を喰って生きている」のである。または「弱者を利用して目的を達そう」と企てているのである。よって「よわもの」は探してでも作ってでも「必要」なのである。

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食べ物を何かに例えるのは、社民党の薄ら左派みたいで抵抗があるが、今、思えば、「自民も民主もカレーライスかライスカレーかの差しかない!社民党はオムライス!」は言い得て妙であった。「どちらでもバランスが整っていれば問題ない」と言っていたのだ。そして、我々は「卵がなくてはならないし、ケチャップをかけねば喰えないし、チキンライスでしか成り立たないオムライスだ!」と宣言していたのである。さすがは福島女史、奥が浅い。そして、この「友愛カレー」・・・。

<“愛は勝つ”にちなんだ特製トンカツとラタトゥイユが添えられ、土産に店のオリジナル皿が2枚付いて2500円>

うむ。さすが。何かと色々、とてもバランスが悪い。

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