忘憂之物

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ
             渋沢栄一

産経・FNN合同世論調査LGBT法案、同性婚法制化…自民支持層の過半数が賛成

2023年02月21日 | 随感随筆



ゲテモノ大好きなマスコミが連日、日本人に虫けらを喰わそうと必死だが、ホットペッパーグルメの「外食総研」が調査すると、9割以上の回答者が「避ける」と答えたとのことだ。これに対して「J-CASTニュース」が「食用昆虫科学研究会」に問うていた。

「昆虫食が世間から受け入れられるためにはどのようなきっかけが必要になるのか」ということだが、その理由として同研究会の吉田氏は「昆虫は嫌悪感を煽る形で報道されてきました」と先ず答えている。報道被害もある、ということか。

なるほど。日々、安倍政権や統一協会に対して「嫌悪感を煽る形」で報道してきたマスコミは腹にすとんと落ちたかもしれない。また、吉田氏は具体例として「衛生害虫」のイメージ、それから「罰ゲーム」を挙げている。これも納得だ。

呆けてテレビなんぞを見ていると、CMでは「ゴキブリがいなくなります」と謳い文句で、俳優やタレントにゴキブリの格好をさせて虐めている。更に呆け続けてバラエティ番組なんぞまで見てしまうと、クイズに失敗しただけで「タガメ」とか喰わされている。タレントは喜んでむしゃむしゃ喰わずに、それこそ嫌悪感丸出しの表情をすることになっている。

こんなのを見ていると、知らぬ間に「ゴキブリは汚いモノ」「昆虫は食べたくないモノ」と偏った考え方に陥る危険がある。だから吉田氏も「昆虫は100万種以上おり、多様性の象徴でもあります」と懸念している。多様性ならば認めねばならない。その「象徴」とまできたなら、ゴキブリ気持ち悪い、は差別につながる恐れがあるから、固定観念を捨てて、ゴキブリに名前を付けてペットにしたり、粉末にして美顔クリームに混ぜたり、そのままパクっと口に入れてもいいかもしれない。そしてマスコミはテレビで「香りが良い」とか「甘くてジューシー」。「さっぱりして食べやすい」「あ、これビールに合いますね」とかタレントに言わせればいい。視聴者の何人かは「そうなのかしら?」と興味を持ってくれるかもしれない。マスコミのチカラが必要だ。

しかしながら、気になることがふたつある。

先ず、ヴィーガンらはなにをしとるのか、ということだ。

ケンタッキーの前で「血まみれのニワトリ」のコスプレをしたり、スーパーで牛乳を撒き散らしたりするのも忙しいだろうが、私としては是非、多様性の象徴である「昆虫」も守ってあげてほしい。いま、世の中は「昆虫食への期待が高まっている」とテレビで賢い人も言っている。これからどんどん虫は殺されて、人間に食べられることになる。大至急、コウロギやミツバチのコスプレをして、昆虫を商品化して売る店などに突撃してほしい。日本では学校給食にまでしようとしたり、お菓子に混ぜたり、パンに混ぜたりしている。

心の優しいヴィーガンは言う。

「動物は痛みを感じる。植物は痛みを感じない。我々は植物だけを食べて生きていけるのに、動物を殺して食べる必要がどこにあるか」

昨年6月、ロンドン大学クイーンメアリー校の研究が発表された。いままで痛覚がない、と思われてきた昆虫だが、実のところ、神経ペプチドが分泌されていた。様々な構造は違うが、我々人間と同じく「痛みをコントロール」していた。つまり「痛み」はあった。

「痛み」を感じるなら食べてはいけないはずだ。ちなみに、追加でいちゃもんをすると、草木の葉をちぎったり、枝を折ってもグルタミン酸がグルタミン酸受容体に結合する。すると細胞内にCa2+シグナルが発生して師管を通じて全体に伝播する。つまり、傷害情報がある。これを「痛み」とする学者も少なくないが、そんな些末なことは気にせず、心の優しいヴィーガンらは今日もブロッコリーを食べて昆虫を守ってほしい。

しかし、もうひとつの気になることは冗談で済まないかもしれない。

最近よく聞く「受け入れられない」という表現だ。「J-CASTニュース」も「世間から昆虫食が受け入れられない」と案じて記事にしているが、さて、本当だろうか。

イナゴや蜂の子なども有名だが、どこのだれも文句など言っていない。また、日本ではシロウオやドジョウも「踊り食い」と称して生きたまま喰う文化もあるが、例えば、これをシドニーの店で出したら嫌悪されるどころか罰せられる。イスラム教でも「生きたまま」の生き物を喰うのは禁止されているが、日本では「活け造り」が出てくれば歓声が上がる。

単純な「食文化の違い」に過ぎないが、これを「受け入れろ」とか言わないし、どうすれば「受け入れるのか」も議論しない。そして、それで何も問題はない。韓国人がうねうねするイカやタコを啜ろうが、喰いたいかどうかはともかく、べつに関係もない。

しかし、これを「なぜ受け入れないのか」と問題として取り上げ、受け入れるべき、受け入れないのはおかしい、と喧伝するなら、そこには警戒心を持たねばならない。そこに「別の意図」を見つけ出して、本当の目的を探る作業は大人としての振る舞いですらある。

最近なら「LGBT法案」だが、ここに不気味過ぎる意図、薄ら寒い目的をみつけることは難しいのかもしれない。事実、私の周囲にいる学生や主婦、社の何人かに雑談交じりに問うたら、このFNNの調査と同じようなもんだった。「賛成」が過半以上を占めた。

こんな典型的で古典的なポリコレに無防備、且つ、無警戒、無関心なのである。だから自民党支持層でも半分くらいは「いいじゃん別に」とか「差別は良くないよね」で安易に流される。票になるなら政治屋も取り入れる。これはもう、仕方ない。

ちなみに、私の周囲の「賛成」の人だが、ここに「性自認、つまり、自分は心がオンナ、で女風呂入ってきて、それを咎めたら差別にあたるとして違法になるのに?」など、わかりやすい事例をいくつか質問に付け加えると、ほとんどが「それは困る」として反対に回った。要すれば、そういうことなのである。

以前から左巻きの連中は、これらを逆手に取ることもやっていた。懐かしいが「特定秘密保護法」の際は「居酒屋で政府の悪口言ったら逮捕される」みたいなデマを流していた。大袈裟で分かりやすいデマを流すか、都合の悪い事実には触れないのか、モノによって使い分けているとわかる。この程度を峻別しない日本人にも辟易するが、しかしながら、ふつうに仕事して子育てして忙しい日本人からすれば、お人好しのなにが悪い、と言われたら返す言葉もない。たしかにその通りではある。ただ、無警戒と無関心の結果は「受け入れるかどうか」を問われないことも自明だ。

連中は意図的に言葉を混同して混乱させる。「昆虫食を受け入れる」と「自分も積極的に虫を喰う」は違うし、法律で「性自認に対する差別は許されない」に反対するからといって「受け入れていない」わけでもない。ちょっと考えてみればわかるのだが、例えば「29日は肉の日」とスーパーの肉売り場にあっても、その日に必ず肉を喰うわけでもない。

どこまでいっても、今日は29日ですよ、焼肉はどうですか?すき焼きはどうですか?今日はお安くなっています、ということだ。決めるのは個々人の勝手である。

29日に肉を喰わないことは許されない、とどこかの誰かが言い出したら、たぶん、びっくりして距離を置くはずだ。また、29日の食卓で、みんな揃って焼肉パーティをしていたら、窓から漏れる焼肉の臭いや煙を発見され、家の前で「牛を殺すな」のデモ隊が集まってくれば引っ越しも視野に入れて対応せざるを得ない。

ふつうに生きているなら、日本国内でも昆虫を喰う文化はあるし、好きな人もいるだろう、でお仕舞だ。性自認でも、本人がそう思うのは本人の自由だ、と言う他ない。朝起きるまで、自分が男か女か、その割合もどうなっているか、わからない、おはようございます、今日は60%が女です、とか言われても、まだまだ寒いですね、風邪など引かないようにしたいですね、それでは失礼、と挨拶するのみだ。他にかける言葉もない。


全体主義の入り口は過ぎている。日本人はもう、北朝鮮や中国を笑えないが、アメリカも別に、エマニエル大使の肖像画を家に飾りなさい、とは言わない。独裁政権よりは少しだけ誤魔化しているから、わからないまま生きていくことも可能だし、わかっていない振りでトボけるとしても責められない。そうしないと面倒臭いし、生き辛いかもしれない。たまには虫を喰って見せたり、女子トイレに女装した変態が入ってきても、それはそれで困った顔だけしていればいい。



それにしても、日本人は本当になんでも「受け入れる」。感心する。

敵性国家の虚飾に塗れた歴史認識を受け入れ、日本人の文化と生活を破壊する大量の移民を受け入れ、我が子が歪んだ教育を施されるのを受け入れ、搾取され続ける社会経済を受け入れ、近代国家ながら森林面積が世界5位の美しい自然を外国資本に差し出し、ジェノサイドパネルを敷き詰める首長を受け入れ、そしてなにより、先人の誇りを踏みにじる無礼を受け入れる。もう、受け入れ星から来た受け入れ星人だ。

しょうもない野党の連中はもちろん、自民党内の左派も「受け入れる」のが得意だが、岸田や稲田もとっくにナニかと「受け入れて」いるのだろう。未だに悪あがきする限られた日本人に対して「もう無駄なのに・・・」と憐れんでいるかもしれない。そもそも安倍総理の暗殺をマスコミの言い分、あの鉄砲玉の言い分だけを「受け入れて」いるのがたくさんいる。それらと比せば変態や虫けらくらい受け入れるだろう。

もう、自分の子が男か女か、苗字が同じかどうか、世界が平和ならどうでもいいじゃないか、と芋虫でも喰いながらスカート履いて受け入れるしかない。

そして、国を憂う日本人の声はますます受け入れられなくなるのだろうが、勝手にナニかと「受け入れた」つもりになっている小狡い売国奴らは、どうぞ、受け入れさせられた先から「受け入れてもらえない」という現実に向き合ってほしい。使えなくなった傀儡は捨てられるし、そもそも、いくらでも替えが効く。使えない傀儡は悲惨な末路を辿ることも「受け入れ」よう。





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