原因を知るように努めておくのは、私の幼少期からのクセ。
原因を
まちがうのも間違われるのも、イヤだった。
対処や判断を違え、違えられる事に即、つながることになる
ということは、
徒労、トラブル、誤認害、不満、冤罪、非解決、無駄な失敗、理不尽の継続
等々 が、まねかれる ということを覚悟しなければならないわけだ。
自他に対し、
自分で責任をとりきることを当然とするかたなら、この切実さを
おわかりいただけるだろう。
原因を知る可能性の芽をつむのが、
注意不足、情報欠如、決めつけ、知ったかぶり、騙され
だと思う。
「?、今のは?」
の「なぜ」は、極力わりだしてきて、
わりだしきれないのは、心にひっかけてきた。
そして、そういった積み重ねの中、
些細なことから巨大なことまで、
市井(いちい)の人 由来ではない作用がわかった。
すべてが、こってり計画的、具体的にしくまれた特悪、極悪である。
この悪のフォースは、
私がこのブログで申した仮説、つまり犯罪技術を掌握した人の存在も考えられるし、同様に人間社会の捉えられ方をなぞらえてやっている はるか古来から存在している事とも言える。
しかし一介の人である私にはそれ以上知る手立ても無いと思われる。
その程度の私が受けてきたことは、もう、あんまりだぁ も徹底している。
自分の意志・期待・意図は、自分にとって変に逆向きに作用し、
その事実である有りよう、アリバイすら、タイミング効果的に逆向きにされていく。
わかりやすい犯行を受けるのは、「大切」が受けるダメージの一端にすぎないが、
一般には認められるそれらすら、私には何一つ普通の形で救われることが無かった。
歳をとればとるほど、条件過酷になっているのは、もう一般的ですらある。
それにしても
生きていくにはすっかり手に負えなくされたとの精神的ダメージも、
予め落差を見定めて打撃が用意されていて、
奈落の底を幾たび更新したか、数えようもない。
同様のパターンを経験したり注視するかたでないと、理解は続かないのでしょう。
母上には、お礼と我が期待を記した手紙を読み上げ、寄せた。
他の人々には、その一部が聞こえても、大半、無関心をふるまわれたが。
自分の真意表明で、ある意味自分のためでもある が
気のせいにしたくない、
その時 お顔が、穏やかにほほ笑んでくれたようであった。
どこまでも、ありがたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます