そりゃ、こいばなとか、バナナのほうがいいけど。スミマセン
漫画を含む書物や記録物(映像を含む)は、残念ながら社会的にも 「焚書(歴史的に悪政を敷くために都合の悪い書物を焼き払う事)が済みかけている状態」(もはや書物まで自動的に変わるので、人々の記憶の共通点を失う状態) かもしれない。
長編的なものになると、おそらく、作者カンヅメの間にご本人の記憶に無い作品がそこかしこバシバシ出ていてもおかしくないし、いわば存命でなくなるときは、相当変わっている例を見てきた。
人によって内容が違う。オーダーメイド。
兎に角、理解を示すよい言葉であろうが、[隠れれる側] にかかれば、良い意味や目的を追い出し悪用にもっていかれてしまう。
意味であれ、方法であれ、悪用されたからといって一緒くたに除外してはそれこそもう、善処為す術がない。医療でも何でもオーダーメイドの概念はもっておきたい。
「多様性」にしたって、変に思わすようなアピールを珍重させたものに振り回されたりすると(つい前まではまじめで好意的なイメージをつけられた伝えられかたほど危険)、逆に自分と区別するよう仕向けられ、存在を認めるどころか、別物扱い意識(自覚がないもの)がまさり、分断・敵対となる。
世論調査の項目や選択のさせ方にせよ、分断させたい人(例えば被害者、弱者)にせよ、その「枠づくり」は、[隠れれる側] のご用意のものしか 残らない。
こんなこと書いても、釈迦に説法(とっくに気付いている人わかっている人にモノ申していること)か、馬の耳に念仏(おうまさんゴメン)か、自覚無しの人しかいないと推測してしまうけど。
けっきょく、タイトルに向き合うと(今頃)、なんでこうなったかというと、どらえもん だ。
ジャイアンを引き合いにして、もしかしたらどなたか、はぁ? かもしれない。
どこでもドア、竹コプター がある。
ある時期しょっちゅうタケコプター だったので、見ていたはずの友人に言ってみたところ、全く覚えがなかった。(竹 もあるし、〇〇コプターは自分にとって非常に関連があるけど。)
で、申したいのはどこでもドアのほう。
どんなに遠かろうが過去や未来であろうが、行けてしまう夢の扉。
なのにナゼか。やっとわかった。
[隠れれる側] にかかれば大体逆なのだ。
行きたい方向、場所には、自分で開けれない鍵のかかったドアが出現し、望まぬタイミングで似て非なるところへ出されてしまうドアが出現する。
この概念の別のやりかたでは、申告、情報提供など窓口にも置き換えられそうだ。
こんなこといって、さっそく全滅してたらどうするんだろ。
(そして兎に角、)常に「ああいえば、こうなる」式できている・・。