ニ城山(318m)~善光寺山(289m)~障子岳(215m)縦走
(南関郷の城跡巡り、里山トレッキング)
平成31年2月24日(日) 快晴
4泊5日の日程で子供宅に行くこととなった。
熊本地震以来、「二重の峠」越えの運転は私が定番
(女房は峠越えの運転を怖がり運転拒否)
となり子供・女房の野暮用に運転手の役割で付き合うこととなった。
子供宅に4泊もするので自分なりの(女房達の買い物の巡りには
付き合いたくないので・・) スケージルを立てて、
一日目の夜は、同級生のマ-ちゃんとの飲み会、
三日目に食処(鏡町の牡蠣小屋と小川町の栄寿司)へのドライブ、
そして四日目の日曜日に三角岳・柴尾山登山を計画した。
ところが二日目の昼に同級生の島崎君から
「今度の日曜日に、二城山~大津山縦走をするので来ないか・・・」
との電話があり即参加することで決断。
この縦走コ-スは前回(2014年03月) 、縦走途中(善光寺山)で断念した
ままであったので今回絶好のチャンスを得たと思い、
当初計画の三角岳よりもこちらを優先の山とした。
熊本市内を7:30分に出て菊水経由で「うから館」着は8:40分の
早めの到着(集合時間は9時)。
直ぐに登山姿で島崎君が一番に現れ、
三々五々に集まる今日のメンバ-に私の紹介あり・・・
初めて面する人ばかりであったが、ただ一人だけ見覚えのある顔の人
(会話したことは無いが、高校の一級先輩のF田さん)が居たので
「校内で見かけていました・・・」との挨拶を交わした。
今日の登山は「南関山登りクラブ」の年間計画表にない希望者だけの登山会との事であった。
(行程) うから館(発9:11)~(バス利用・¥260)~大原郵便局前(着9:20~発9:23)
→ 「金栗四三かけあし登校の道」建て看板→「開園の碑」(着9:50)→
作業道から山道取付き(着10:00)→ニ城山頂上(着10:15~発10:30)→
小原城跡(着11:40)→昼食(12:10~12:30)→障子嶽城跡(着12:50)
瓦屋敷・熊野神社(障子嶽権現社)拝殿(着13:05)→
集落(瓦屋敷~井手の上)の町道を辿って大津山神社へ(着13:40)
↑ [水色線が今回の縦走ル-ト]
↑ [うから館に集合して、ここからバス乗車]
↑ [ル-ト図:肥後の山675座駆け歩き(西和文著)より転載]
↑ [大原郵便局前で下車、正面の山が二城山]
↑ [金栗四三かけあし登校の道]←(金栗四三ミユ-ジアムHPからキャプチャ)
今年中には この道(←和水町HPより)を歩きたいなぁ~と決意・・・
池の先には三霊宮 (御祭神は熊野三社の神)
*(三霊宮に関して参考にしたサイト)
服部英雄のホームページ>南関町相ノ谷地区の歴史環境
より転載→ 「熊本県八代市の妙見宮を分社したものとの伝承がある。」
↑ [「開園の碑」付近から眺めた小岱山]
南北に長い山体は玉名の名山たる存在感を示している・・・。
盟主・筒ケ岳(501m)には戦国時代の山城「筒ケ嶽城」の遺構
がある。
(私の過去の山行歴は→平成22年2010.2月 )
↑ [涸れ谷筋の急登]
↑ [山頂の標識]
山頂は、二つの平坦地が連なり山城(鯉鮓城)の
遺構を思わせる地形となっている。
展望は南側に広がり
正面に小岱山・右に三池山・左に一の岳・二の岳が望まれる。
*鯉鮓城(こいさくじょう)に関するサイト
→城郭放浪記
↑ [山頂西側に鎮座するニ城山神社]
↑ [ニ城山神社のご祭神は神武天皇]
御門の神として、宮地嶽神社・英彦山神社の二神が祭られている。
↑ [遠景に、二ノ岳(685m)・三ノ岳(681m) ]
(私の過去の山行歴→平成22年2010.3月)
↑ [三池山と思われる]
実家(南関町)の台所(西窓)から朝夕眺めていた三池山であるが、
ここから眺める山容は三池山とは思えないような山姿の眺望であった。
↑ [「南関山登りクラブ」の方々と記念撮影]
↑ [ル-ト図:肥後の山675座駆け歩き(西和文著)より転載]
↑ [ニ城山頂上から離れて約1時間、稜線の縦走路]
ここに至る手前の登路で今日初めての登山者と出会う。
大牟田から来られた老夫婦で島崎君の知り合いの方らしい・・・。
中山集落登山口から善光寺山を経て二城山のコ-スを歩くとのこと。
マイナーこのコ-スを
夫婦連れ添って歩かれているお姿に、熱い感動を覚えた・・・。
↑ [善光寺山(別名:小原古城山)頂上に在る「小原城跡」]
前回は、ここでニ城山への縦走を断念して中山集落に下山した。
↑ [障子岳(別名:亀山とか権現山とか呼ばれている)にある「障子嶽城跡」]
子供の頃、メジロ落としやヤマモモ採りで遊んだ思いでの山である。
その頃は西側の展望が開けていて、南関町の街並み三池山が展望出来た。
↑ [熊野神社(障子嶽権現社)拝殿の広場で小休憩]
↑ [大津山阿蘇神社楼門への石段]
今日の縦走計画はニ城山から大津山までであったが、
大津山の頂上を踏むことなく
私はここで断念(下山後に会う山鹿の友人の都合で・・・)することとなった。
今日の仕上げとして、
ニ城山から歩いた縦走路を、大津山頂上から眺めることを
楽しみにしていたのであるが・・・残念
↑ [山鹿平山温泉「奥山鹿」]
登山のつかれを温泉で癒す、この気分は最高のひととき・・・
初めて立ち寄った湯船(¥350)であるが若女将が自慢される通り
泉質(つるつる感と温度)は平山温泉一番(個人の感想)の湯上り感であった。
(登山を終えて)
登山余禄1
障子岳直下付近で先輩のF田さんから「H見さんが出でいるので」
と言われスマホを渡された。
(登路の道すがら「難関突破米」の話題で、H見先輩の話を私からしていたので、
F田さんが気を使って取り次がれたのであろう)
先輩と後輩を58年振りに繋がれたF田さん、
こんなに嬉しい思いをしたことはありません・・・(感謝)
H見先輩とは中学・高校で柔道部を同じにして乱取りした仲、
先輩の得意技(背負い投げ・体落し)が私の得意技となり憧れの先輩でもあり
かつ生徒会長もなされ文武両道の先輩であった。
卒業以来初めての語らいであったが私の名前をフルネ-ムで
覚えておられたことに感慨もひとしおであった。
先輩の「背負い投げ」が素晴らしかったことや高校時代のキャップテンを
先輩を受け継いで、私がやった事等々の話をした。
(短い会話であったが古里の山が招いた、思い出に残る感動の一幕であった・・・)
登山余禄2
古里に住む島崎君は小・中・高の同級生で、
お互い山好きであることから心通う仲であろう・・・
教職を退職後は地域活動に貢献され「南関山登りクラブ」もリ-ダ-的活躍を
されている模様である。
なかでも「大津山~障子岳~善光寺山~二城山」の縦走路の整備に活躍し、
現在は立派な登山道として道標・案内板が樹木に掲げられ、
登路の踏み跡もハッキリして来たようである・・・。
今回の登山でも鉈釜・鋸を身に着けて登路の蔓等の刈り払いに
汗を流していた姿が印象的であった。
南関郷の里山には中世時代の山城の城跡が数多くあり、
今回のコ-スはそのいにしえを辿る縦走トレッキングであった。
子供の頃には無頓着であった
古里の山河の歴史を、改めて知る面白さが蘇る歩きであった。
ちなみに私が思うには、
中世時代の「大津山(南関町)と二城山(大原村)」間の人の歩きは
今日歩いた縦走ル-トを利用していたのでは・・・
という果てしない想像が駆け巡る。(苦笑)
(2019.4.11 追記)
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