このブログはバイクなんかで、あちらこちらへ行った事を書くのが主眼なんですが、まだ寒い日が続いたりしていて中々バイクで出かけられていませんので、過去の闘病記なるものを書かせてもらっています。
これも人生経験で「見て喜ぶ(??)経験」でもあるので、お時間ある方、お付き合い頂けたら幸いです。
さて前の記事ではいわゆる「麻酔で落ちる」ところまで書きました。それまでドラマで全身麻酔の事を見聞きしていましたが、正直あそこまで完璧に意識が落ちるというのは初めての経験でした。
「〇〇さ~ん、終わりましたよ」
何か遠くで言われている感じがしたのは記憶しています。一瞬自分がどこにいるのか判りません。
「〇〇さ~ん、目を開けて下さい」
目を開けると目の前に看護師と麻酔科医の顔があり、それを見た時に「ああ、手術室にいたんだ。。」と朧気ながら思い出して来ます。ふと首を上げると左胸は厚手のガーゼで覆われていて、テープでがっちり固められています。そしてその左胸脇からはチューブが出ていて、その先には何やらプラスチックボトルが付いていました。私は何気にそのボトルを掴みあげ「何これ?聞いてないんだけど~??」とやったところ、周囲の看護師は大慌てで私の手からボトルを取り上げました。
これはドレンとかいう奴で、あとから聞いたのは手術後に中に溜まった血液を排出する為のものでした。
よく全身麻酔から醒めると「気持ち悪い」とか「吐き気がする」「けだるい」と言うじゃないですか。しかしこの時の私は少し違っていて、まるで強いお酒で酔っ払った感じ、これがとても良い気持ちだったのです。その事もあってか私は手術室の中で歌を歌っていたそうです。
私の母が手術日には付き添っていて、待合場所は病棟四階のナースステーションの脇の椅子だったそうです。看護師から「もう出てきますよ」と聞いて後、しばらく待つと何やら歌声が近づいてきて、エレベータが開くと、その歌声の正体は私で、ストレッチャーに寝かされてご機嫌に歌を歌っていたそうです。母もこれには呆れ返ったとか。
この時の私には歌を歌っていた記憶がありましたが、母親がいたのも病棟のベッドに移ったのも、何か朧気な記憶でしかありません。意識がはっきりしてきたのは夜の10時頃でした。6時間近くは酔った感じでいたのでしょう。
手術後の部屋はナースステーションの隣の病室。いわゆる「術後回復室」扱いの病室なんでしょうね。私の体には心電図がついて血圧計も左腕に巻かれ、右腕には点滴が付けられ酸素マスクも付けられていました。薄暗い病室は4人部屋で、私以外には2人いて、それぞれ様々な機械が付けられていて、部屋の中には「ポコポコポコ・・」という吸入器(?)の音だけが聞こえてました。
私はというと手術後の痛みは確かにありましたが、通院治療時にグリグリとやられた痛みに比べたら大した事ではなく、たまに来る看護師から「痛み止めいりますか?」と聞かれましたが「大丈夫です」と返しました。
この時の手術後で一番きつかったのは、実は「タンの絡み」で息を吸うごとに肺が「ゴロゴロ」と音を立てるほどにタンが溜まっていて、それを咳で出すのですが、これが結構きつかったです。私の場合には左胸を切ってましたが、咳するのにも大して響きませんが、お腹を切った人は大変なんだろうなと思いました。後から考えると恐らく喫煙が原因で、このタンの絡みは起きていたんでしょうね。
手術後の夜は若干の微熱が出ていた他、特に問題もなく私は熟睡していました。
翌日は朝9時前に主治医の回診があったのですが、そこでガーゼ交換と傷口消毒しました。この時に手術後の傷口を見たのですが、左胸は乳首は付いているものの、その下の脂肪部は大きくえぐり取られていました。キズを見たバカボンパパ医師は「乳首もしっかりくっ付いているので、再手術はしなくて良いかな」との事。その後に「重病人じゃないんだから、今日から動くように」と言われました。
「動くように」と言われても右手に点滴をぶら下げる台を引き、左側には肩から小さなポーチでドレンのボトルをぶら下げた状態なので、快適に動けるという状況では無かったのですが、確かにそれほどキズも痛んでいないので、病院内を探検しようと病室から出て、ブラブラ院内をあちらこちら歩き回る事にしていました。どうやら2Fは手術室、病棟は3階以上なんですが、3階は産婦人科なので男子禁制(要は親族者以外の男性は立ち入り禁止)。だから4階から上を順繰りとブラブラして、最後は屋上の喫煙場所でタバコを吸っていました。
当時の病院、タバコについてはかなり緩かったんですよね。