なぜ私が、公文教室をやめたか、ということについてはこまこまと以前にも書いてきましたが
「これじゃあ、だめだ」と思った理由のひとつについて、
具体的には書いてなかったような気がします。
それは、私が可愛がっていた(いる)ひとりの少年が、希望進学校へ合格できなかった、ということも、とても大きいのです。
小学校一年の頃からの生徒で、実際何かと手のかかる子でした。
宿題はろくにやってこない、教室へは真っ暗になって遊び相手がいなくなってから来る、
閉室時間の頃までいて、どうかすると鍵を閉めてエレベーターに乗るまで一緒・・・・・
でも、心根の優しい憎めない子で、数学は得意でした。
うちのアルバイトの大学生は、地元の国立大学の学生に限定、ということもあって、
その生徒は、ボクも今にここでアルバイトをしたいと言っていて、
市内のトップ高校への進学を希望していました。
そんな子、とても可愛いものですよね。
中学二年の頃、他の教科の成績が今ひとつということに気づきました。
自宅での学習の仕方など、言える限りのことは言い、受験対策などしている他の塾へ行くことさえ勧めたのです。
夏季講習・冬期講習などには行った様なのですが、
それでも、さして成果は上がらず、三年生になってからさえ、
公文の数学の進度を上げることには熱心でしたが、
それ以外のことには仕方なくやっているという感じがぬぐえないまま、受験を迎えてしまいました。
この子の一学年上に、優秀な生徒がいて、
その子も中三の時、教室では高校数学に熱中していて
それでも楽々トップ高へ合格しているものですから、
自分も、という気持ちがあったようです。
合格した生徒は、教室以外で他の教科の学習は充実していて、
常に中学での成績はトップクラスにいたからこそ、
そういうことをしている余裕があったのですが、
こどもというのは、どう言っても自分の目で見たものしか見えないので、
公文だけやっていれば大丈夫、との思い込みを翻すことはできませんでした。
また、実際、小学生の頃はそれだけで十分だったわけですから。
それまでにも、小学校卒業時には、中学二年ぐらいの学習内容に進んでいる生徒たちが、
中一、中二の頃にやめて行き、他塾へ行ったものの、私の予定(予想学力向上グラフ)からすると
もっと、上位の高校へ行けたのではなかろうか、と思ったこともよくありました。
公文教室では定期テスト対策等、教材外の指導はできないという建前になっているので、
テスト前には学校のドリルなど持ってきて、教室でやってもいいよ、というのがせいぜいで
それ以上のことには手を出しかねていたのです。
ですから、自分で試験勉強ができない、という生徒には、不本意ながら、
他塾へ行ってもらっていました。
一方、本当にできる子、やれる子達は、塾なんて時間の無駄だからと、
うちの教室で基礎学力の3教科をやり、後は自分でやっていて、
それぞれに希望高校へ進学しています。
問題は、トップクラスには、入りきれない生徒なのです。
小学生の頃、せっせと教室に通い、学年を超える学習とか何とか、
学校の授業時間の何倍もの時間をかけてやれるようになっている生徒たち。
学校で習う頃には、ほとんどできることばかりなので、
本人も得意ですし、テストだって楽々です。
学校の授業でやる頃には、自分ができるようになるまでどのくらいのことを
積み重ねてきているかなどということはケロッと忘れているので、
たいして勉強なんかしなくたってできたじゃないか・・・
中学入学当初はそれでもいいのですけれど、その先は・・・・
公文式で育った生徒のうち、「やっていたからこそ、できるようになった」という生徒が
他塾へ行くと、計算が速くて正確で・・・
「すごいですね、こんなにできるお子さんなら、当塾へ来れば、もっともっと伸びますよ」
背景を知らないわけですから、現在のできることだけ見て、
「アタマのいい子」と勘違いするのは当然かもしれません。
この年齢でこの問題が解けるのだから、理解力のある子であろう・・・・
公文の指導の本筋は「教えない」ですから、その方針で何年も学習を続け、
学年を超える教材も独力で解けるように育っている生徒は、
それこそ、塾など必要としないのです。
しかし、もし、本当に、「教えない」を貫いて、詰まったら、
自分で解けなくなったら復習をして
再度引っかかったところに挑戦させる、で、やれないようならまた復習・・・・
ということを繰り返していたら、生徒はどうなるでしょう?
ごくわずかの、本来頭がよく、かつ根性の座っているタイプの子しか、
公文での学習を継続することはできないでしょう。
従って、そういう生徒しか教室に居残れないわけですから、
何年も公文を続けることができた生徒は優秀で当たり前。
とすると、公文教室自体が、生徒のふるいわけに一役買ってしまうことになります。
ところが、実際には、そこまで公文式の学習方法にこだわりきることのできる指導者なんて、
そうそういるわけはないのです。
なぜなら、続かない子はじきにやめていってしまうから。
それでは、生徒数は維持できません。
生徒数の維持ができなければ・・・・・・教室経営は成り立ちませんから、
やはり手を変え品を変え、という感じで、継続学習をさせるべく努力をすることになり、
結果、特段によいアタマではないにもかかわらず、小学生のうちから方程式の解き方を教え・・・・・?
「あれもこれもできる子」に仕立てていくわけです。
でも、やはり、教わり訓練を重ねてできるようになっているわけですから、
アタマが良くなっている、とは言いかねるわけです。
そういう、やっていたからこそ、学年以上の学習ができる生徒については、冷たいようですが
「ここまで面倒見たんだから、あとは他塾へ行くなり何なり好きにして」で、
さほど気にはならなかったのですけれども、
前述のごひいき生徒については、若干事情が異なりました。
なにしろ、私が可愛いと思うくらいですから、小学生の頃から、
アタマの回転は速かったのです。
それなのに、公文に頼ることを教えてしまい、
本来の好奇心や向学心を傷つけてしまったのではなかろうか・・・・
うちの教室での評価(進一掲載だのなんだの)に満足してしまい、
本当の社会での、学校での評価ということに目を向けなくなってしまったのではなかろうか・・・・
そう思うと、ジリジリしてきて、どうにもなりませんでした。
やはり、公文以外の、学校での成績ということに反映する学習をさせなければいけなかった、
あれほど、私を信じきって、うちの教室でほめられることを喜んでいた子なのに・・・・
その反省が、五教科で、テスト対策もしっかりやる塾にしよう、という気持ちに繋がっているように思います。
「これじゃあ、だめだ」と思った理由のひとつについて、
具体的には書いてなかったような気がします。
それは、私が可愛がっていた(いる)ひとりの少年が、希望進学校へ合格できなかった、ということも、とても大きいのです。
小学校一年の頃からの生徒で、実際何かと手のかかる子でした。
宿題はろくにやってこない、教室へは真っ暗になって遊び相手がいなくなってから来る、
閉室時間の頃までいて、どうかすると鍵を閉めてエレベーターに乗るまで一緒・・・・・
でも、心根の優しい憎めない子で、数学は得意でした。
うちのアルバイトの大学生は、地元の国立大学の学生に限定、ということもあって、
その生徒は、ボクも今にここでアルバイトをしたいと言っていて、
市内のトップ高校への進学を希望していました。
そんな子、とても可愛いものですよね。
中学二年の頃、他の教科の成績が今ひとつということに気づきました。
自宅での学習の仕方など、言える限りのことは言い、受験対策などしている他の塾へ行くことさえ勧めたのです。
夏季講習・冬期講習などには行った様なのですが、
それでも、さして成果は上がらず、三年生になってからさえ、
公文の数学の進度を上げることには熱心でしたが、
それ以外のことには仕方なくやっているという感じがぬぐえないまま、受験を迎えてしまいました。
この子の一学年上に、優秀な生徒がいて、
その子も中三の時、教室では高校数学に熱中していて
それでも楽々トップ高へ合格しているものですから、
自分も、という気持ちがあったようです。
合格した生徒は、教室以外で他の教科の学習は充実していて、
常に中学での成績はトップクラスにいたからこそ、
そういうことをしている余裕があったのですが、
こどもというのは、どう言っても自分の目で見たものしか見えないので、
公文だけやっていれば大丈夫、との思い込みを翻すことはできませんでした。
また、実際、小学生の頃はそれだけで十分だったわけですから。
それまでにも、小学校卒業時には、中学二年ぐらいの学習内容に進んでいる生徒たちが、
中一、中二の頃にやめて行き、他塾へ行ったものの、私の予定(予想学力向上グラフ)からすると
もっと、上位の高校へ行けたのではなかろうか、と思ったこともよくありました。
公文教室では定期テスト対策等、教材外の指導はできないという建前になっているので、
テスト前には学校のドリルなど持ってきて、教室でやってもいいよ、というのがせいぜいで
それ以上のことには手を出しかねていたのです。
ですから、自分で試験勉強ができない、という生徒には、不本意ながら、
他塾へ行ってもらっていました。
一方、本当にできる子、やれる子達は、塾なんて時間の無駄だからと、
うちの教室で基礎学力の3教科をやり、後は自分でやっていて、
それぞれに希望高校へ進学しています。
問題は、トップクラスには、入りきれない生徒なのです。
小学生の頃、せっせと教室に通い、学年を超える学習とか何とか、
学校の授業時間の何倍もの時間をかけてやれるようになっている生徒たち。
学校で習う頃には、ほとんどできることばかりなので、
本人も得意ですし、テストだって楽々です。
学校の授業でやる頃には、自分ができるようになるまでどのくらいのことを
積み重ねてきているかなどということはケロッと忘れているので、
たいして勉強なんかしなくたってできたじゃないか・・・
中学入学当初はそれでもいいのですけれど、その先は・・・・
公文式で育った生徒のうち、「やっていたからこそ、できるようになった」という生徒が
他塾へ行くと、計算が速くて正確で・・・
「すごいですね、こんなにできるお子さんなら、当塾へ来れば、もっともっと伸びますよ」
背景を知らないわけですから、現在のできることだけ見て、
「アタマのいい子」と勘違いするのは当然かもしれません。
この年齢でこの問題が解けるのだから、理解力のある子であろう・・・・
公文の指導の本筋は「教えない」ですから、その方針で何年も学習を続け、
学年を超える教材も独力で解けるように育っている生徒は、
それこそ、塾など必要としないのです。
しかし、もし、本当に、「教えない」を貫いて、詰まったら、
自分で解けなくなったら復習をして
再度引っかかったところに挑戦させる、で、やれないようならまた復習・・・・
ということを繰り返していたら、生徒はどうなるでしょう?
ごくわずかの、本来頭がよく、かつ根性の座っているタイプの子しか、
公文での学習を継続することはできないでしょう。
従って、そういう生徒しか教室に居残れないわけですから、
何年も公文を続けることができた生徒は優秀で当たり前。
とすると、公文教室自体が、生徒のふるいわけに一役買ってしまうことになります。
ところが、実際には、そこまで公文式の学習方法にこだわりきることのできる指導者なんて、
そうそういるわけはないのです。
なぜなら、続かない子はじきにやめていってしまうから。
それでは、生徒数は維持できません。
生徒数の維持ができなければ・・・・・・教室経営は成り立ちませんから、
やはり手を変え品を変え、という感じで、継続学習をさせるべく努力をすることになり、
結果、特段によいアタマではないにもかかわらず、小学生のうちから方程式の解き方を教え・・・・・?
「あれもこれもできる子」に仕立てていくわけです。
でも、やはり、教わり訓練を重ねてできるようになっているわけですから、
アタマが良くなっている、とは言いかねるわけです。
そういう、やっていたからこそ、学年以上の学習ができる生徒については、冷たいようですが
「ここまで面倒見たんだから、あとは他塾へ行くなり何なり好きにして」で、
さほど気にはならなかったのですけれども、
前述のごひいき生徒については、若干事情が異なりました。
なにしろ、私が可愛いと思うくらいですから、小学生の頃から、
アタマの回転は速かったのです。
それなのに、公文に頼ることを教えてしまい、
本来の好奇心や向学心を傷つけてしまったのではなかろうか・・・・
うちの教室での評価(進一掲載だのなんだの)に満足してしまい、
本当の社会での、学校での評価ということに目を向けなくなってしまったのではなかろうか・・・・
そう思うと、ジリジリしてきて、どうにもなりませんでした。
やはり、公文以外の、学校での成績ということに反映する学習をさせなければいけなかった、
あれほど、私を信じきって、うちの教室でほめられることを喜んでいた子なのに・・・・
その反省が、五教科で、テスト対策もしっかりやる塾にしよう、という気持ちに繋がっているように思います。
くもんがらみのとりとめのないことを書き綴っているブログを「最初から・・・」なんて、本当にありがとうございます。
でも、何度も触れていますように、公文の教材を使用するにはフランチャイズ契約を結ばなければならず、
現在は、他の教材併用はできないと思います。
私も、できることなら小学生向けには公文の教材を使い(教材のみ買って)、中学生には他のテキストを使用していく方向でやっていきたいところでした。
でも、公文教室と他の塾を一人の指導者が経営することは、現在は禁止事項です。
確か、身内が近くに塾を開いているような場合も、
公文教室開設はできなかったような・・・・・
そのため、ネイティブスピーカーをそろえての英語教室を立ち上げた先生は、公文のほうをやめました。
現在は、私たちと同じ教材屋さんから教材を購入し
英語教室と三教科指導の教室とを経営しておられます。