ある時代との対話

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ある時代との対話⑤

2021-07-04 18:08:00 | 日記

⑤「存在と時間」冒頭に「私たちの時代は「形而上学」を再び肯定することを進歩のひとつに数えている。それなのに、右に挙げた問いは今日では忘れられている。「存在ウーシアを巡る巨人たちの戦い」を新たに焚きつける努力など自分たちのあずかり知らぬところと高をくくっている」とあり、この本の問いが「存在の問い」であることを明らかにしている。


しかし、序論部で書かれている「存在の問い」は、「存在と時間」第一編、第二編を読んでもその後最後まで出てこない。呆気に取られていたが、この本は第七版までは、前半部とあり、後続する巻が「存在への問い」に答えるはずであった。「存在と時間」序論の最後に「存在と時間」の全体の目次が書かれているが、それで見ると現在「存在と時間」として出ている書物は、当初構想されていたものの、半分ほどであることがわかる。


「第一部

 ①現存在の準備的な基礎分析

 ②現存在と時間性

 ③時間と存在

 第二部

 ①カントの図式論と時間論は時節性をめぐる問題構成の前段階である

 ②デカルトの「われ考える、われ有りの存在論的基礎 考える物の問構       

  成の中には中世存在論が取り込まれている。

 ③アリストテレスの時間論は、古代存在論の現象的基盤と限界を見極め    

  る基準である」

  となっており、既刊部は第一部の①と②であることがわかる。だから「存在と時間」をいくら読み進めても存在への問いには行きあたらない訳だ。

ハイデガーの「存在と時間」という本の題に惹かれて「存在と時間」を買い求め読んだものの肝心のところに行くまでで終わっているという話しを後で知り唖然とした記憶がある。


木田元の「ハイデガーの思想」という岩波新書の本に「存在と時間」の種明かしのようなものが書かれてあり、それで納得がいった。もちろん、今は簡単に書いているが、木田さんの本やいくつかのハイデガーの本などを読んでおそらくそうだろうという感じでわかったという次第である。


ハイデガーには「現象学の根本問題」という講義録があり、それが「存在と時間」の書かれなかった後半部だと言うことだった。ハイデガー全集が1976年に刊行された時も現象学の根本問題が第一回配本になっており、ハイデガーも「現象学の根本問題」にはなみなみならぬ力を注いでいたようだ。当時、創文社からハイデガー全集が続々と公刊されていたが、「現象学の根本問題」は未だ刊行されていなかった。しかし、1930年代のニーチェ講義やシェリング講義など講義録も「存在と時間」の後半部を補うものだと教えられこれらの講義録も熱心に読んだ。


冒頭「存在ウーシアを巡る巨人の戦い」という文句をあげたが、ウーシアとはアリストテレスまで遡る用語で、それがやがてラテン語でSubstantia. ドイツ語のSubstanz 実体という意味に変わってくる。実体とは神さまのことで、アリストテレスの時代には単純に存在と捉えられていたウーシアが、ラテン語、ドイツ語、近代語になるに従い元の意味から離れ神さまに変わっていく。ハイデガーはそれをひっくり返すことで、西欧の歴史全体をひっくり返そうとしたのではないかと推測される。


創世記の批判だと思われるが、無から世界創造があったのか、もとからあった素材が変わったのか、世界の始まりの捉え方ひとつで、われわれの根底には絶対神があるのか、存在ウーシアがあるのか、そこには大きな違いがある。無からの創造を説いているのは歴史的に形成されたキリスト教だけである。


さて、マルクスに話しを戻せば、マルクスは価値実体Wert Substanz という用語を使う。が、わざわざ実体という用語を使うことによりそこにキリスト教的な神学に対する皮肉をこめているように思われる。が、それは後ほど話していきたい。