ある時代との対話

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ある時代との対話⑦

2021-07-16 16:52:00 | 日記

 「資本家的生産様式が支配している社会の富は、「膨大な商品の集まり」として現れている。したがって、この富の基本形態である商品の分析は、われわれの出発点である」


マルクスは財一般でもなく、富でもなく商品から資本論を始める。資本主義が支配する社会の中では商品なくして生きていけず、また、自らも商品にならざるを得ない。


第一章商品章を、二版以降マルクスは商品から貨幣の生成史として書き換えたために、私もそうだったが、多くの読者がここに貨幣論を読みこんでしまったきらいがあった。しかし、初版資本論を読む限り、第一章商品にあたる箇所に、貨幣形態は出てこない。つまり、マルクスは商品そのものを問題にしている。


では、商品とは何か〜「商品の価値が持つ実在は、つかみどころがないという点では、フォルスタッフの女友達である寡婦クイックリーとは違っている。商品体のもつかさばりとは極度に対照的に、商品の価値の中には自然素材が微塵も入り込んでいない。したがって一つ一つの商品はどういじりまわしても、価値物としては捉えどころがない」


「商品は一見したところでは、ありふれた自明のもののように見える。これとは反対に、われわれの分析が示すところでは、商品は形而上学的な精密さと神学的なうわべの飾りにみちた極めて複雑なものである」商品とは形而上学的、神学と同様、実は人間が作り出した訳の分からないものである。


商品を財一般から区別するものは、その使用価値性ではなく、価値である。すべては使用のために作られるのではなく、価値を増やすために作られる。社会全体が商品生産になることによって、社会全体が逆立ちし、倒錯する。


価値という「この共通なあるものは、商品の幾何学的、物理学的、化学的などといった、何か自然素材ではありえない。商品の自然的特性は、それがこの商品に、使用価値を産む有用性を与える限りでのみ考察される」


商品の自然的属性が問題になるのは商品を有用物にし、使用価値が問題になる時だけである。しかし、商品の価値は、商品からの使用価値の捨象によって初めて成り立つ。ただ、ここで一言挟んでおけば資本主義の限界は使用価値であり、商品の肉体であり、素材である。価値だけではヘーゲルの概念と同じように空中に漂うしかない。「富の社会的形態がどうあろうとも、使用価値は、富の素材をなしている。われわれが考究する社会では、それは同時に交換価値の素材的担い手である」ラシャトル版邦訳4つまり、資本主義に外部あるいは限界は存在する。


「商品の使用価値がひとたびわきに片づけられると、商品には一つの特性、労働生産物という特性しか残らない。しかし、労働生産物そのものが我々の知らない間に変態されている。もし、我々が労働生産物の使用価値を捨象するならば、労働生産物に使用価値を与えているあらゆる物質的ならびに形状的な要素も、同時に消滅する…………したがって、もはや、これらの労働に共通な性格しか残らない。これらの労働はすべて同じ人間労働に、人間労働の支出に、人間労働力が支出された個々の形態に関わりなく、還元される。」


「さて、労働生産物の残留物を考察しよう。どの労働生産物にも、幽霊のような実在がある。これらすべての物体は同一の昇華物、同じ無差別な労働という原器に変態されて、もはや一つのことしか表さない。すなわちこれらの物体の生産には人間労働力が支出されたということ、そこには人間労働が積み重ねられているということである。この共通な社会的実体として、これらの物体は価値である」


価値あるいは価値実体という概念は何かと言われた場合、マルクスは商品の使用価値を捨象した後に残る商品に共通ななにものかであり、それを抽象的人間労働の結晶と言っているが、さらにそれは幽霊のような実在と言っている。マルクスが価値実体と、わざわざスコラ哲学の実体Substanz を使ったところなど、そしてそれを幽霊だと言っているところなどは半分悪ふざけをしたのではないかと僕は思っている。実体とはそれ自身で自足するものであり、神さまのことだ。このあたりマルクスの初期の歴史的に形成されたキリスト教批判が生き残っているのではないかと思う。要するに資本主義の神さまである価値は幽霊だと言いたいのだろう。その幽霊に翻弄され金儲けに走る人間を嘲笑っている感じがする。


その価値という幽霊は、それ自体一つの商品をいくら眺めていても見いだせない。なぜなら幽霊だからだ。価値形態論は、だから必要とされた。要するに商品の価値は売れてみて初めて分かるのであり、ここでマルクスは価値形態をとく。二商品の価値関係の中で等価形態の位置に置かれた商品は、その自然の姿のまま相対的価値形態の価値を表現する。ここでは私的労働が社会的労働に転化し、具体的労働が抽象的労働に、さらに、使用価値が価値になる。

マルクスは、商品によって表される労働の二要因で、使用価値形成労働と価値形成労働に商品を形成する労働を二面性を持つものとして浮き彫りにした。


「最初、商品はわれわれにとって、使用価値と交換価値という二面性を持つものとして現れた。次いで、われわれが見たように、生産労働が厳密な意味で価値のうちに表現されているこういう労働の二重性格を浮き彫りにして見せたのは私が最初である。経済学はこの点をめぐって研究するものであるから、ここではもっと詳細な細目に立ち入らなければならない」


使用価値形成労働は、「労働は、それが使用価値を生産し、有用である限りでは、どんな社会形態にもかかわりなく、人間の実存条件、永遠の必然性、自然と人間の間の物質代謝の媒介者である」

この点が未来社会に向けての出発点である。その時こそ働かないでたらふく食えるのである




②商品とは、分析して見ると、形而上学的詭計に満ちた神学的な意地悪さでいっぱいの代物であるとは最初に見たマルクスの言葉だが、商品経済の中では、価値実体という幽霊に踊らされて使用対象としての商品に支配されるばかりか自分自身まで商品にならなければ生きていけない。資本主義など逆立ちした、倒錯した社会なのだ。つまり商品そのものが問題なのだから純粋な市場経済やまともな資本主義などあるわけではない。


「労働生産物が商品形態を帯びるや否や、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?明らかにこの形態そのものからである。


人間労働の同等性という性格は、労働生産物の価値という形態を獲得する。継続時間による個別労働の測定は、労働生産物の価値量という形態を獲得する。最後に、生産者たちの労働の社会的性格がその中で確認されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態を獲得する。このことが、これらの生産物がなぜ商品に、すなわち火を見るより明らかで、しかもそうではないもの、あるいは社会的なものに変換するかの理由なのである………


この場合人間にとって諸物相互の関係という幻想的な形態を取るものは、たんに人間相互間の特定の社会的関係であるにすぎない。この現象に類似したものを見出すためには、それを宗教的世界という曇った領域のうちに求めざるを得ない。そこでは人間の頭脳の産物が、それぞれ特殊な体躯を附与されて人間との交渉やこれら産物相互間の交渉を行うところの独立な存在、という外観を呈する。商品世界における人間の手の生産物についても同じである。労働生産物が商品として現れるやいなや労働生産物に付着する物神崇拝、すなわち、この生産様式に、不可分の物神崇拝、と名づけることの出来るものなのだ」ここで物神崇拝と翻訳されているドイツ語はFetischismusである、呪物崇拝でもいい。


引用ばかりで恐縮だが、ラシャトル版からの引用なので読みやすいと思われる。僕が下手な説明をするよりもマルクスに語らせた方がいいと思われた。しかし、ドイツ語二版にあってラシャトル版にない表現がひとつあった。

 phantasmagorischeという表現で、幽霊ショーのことらしい。マルクスは資本家的生産様式を幽霊ショーになぞらえている。幽霊がうようよいて毎日幽霊ショーを繰り広げている世界である。商品もまた幽霊であり、それを物神崇拝しなければならない世界というわけである。



「労働生産物の価値性格が実際に目立つのは、労働生産物が価値量として規定される場合にかぎられる。価値量は生産者たちの意志や予測にかかわりなく不断に変化し、したがって、彼ら自身の社会的運動が彼らの目には物の運動という形をとる…………私的労働の生産物の偶然的な、いつも可変的な交換比率においては、その生産に必要な社会的労働時間が規制的な自然法則として力ずくで勝利をしめるからであり、このことは、家が頭上に落ちてくれば誰にでも重力の法則が感じられるのと同じである。従って労働時間によって価値量が決まるということは、商品の価値の表面的な運動の背後に隠された秘密である」


人間と人間の関係が物の形をとって、人間の手の産物が、商品として現れるやいなや、人間を支配し、物神崇拝を生み出すのは、商品の表面的な運動の背後に規制的な労働時間、価値実体が働くからである。価値増殖のための生産様式に於いては、すべてはひとのための生産ではなく、価値増殖のための生産に変わる。この商品生産におけるフェテイシズムは、つまり、商品の支配であると同時に、商品内部に存在する価値による内面の支配を生み出す。


「労働生産物は価値としてはその生産に支出された人間労働の純粋にして単純な表現である。という後世の科学的発見は、人類の発展史上に一時期を画するものであるが、労働の社会的性格を物の性格、生産物自体の性格として出現させる幻影を、少しも一掃するものではない。この特殊な生産形態、つまり、商品生産にとってのみ真実であるものーすなわち、この上なく多様な種類を持つ労働が、同じ抽象的人間労働としてそれらの同等性のうちに成り立っていること、そして、また、この独自な社会的性格が労働生産物の価値形態という客体的形態をとっていることーこの事実は商品生産の機構と関係にとらわれている人間にとっては、価値の性質の発見の前後を問わず不変であり、自然界の事実のように見える」



「ブルジョア経済学のカテゴリーは、それらが現実の社会的諸関係を反映する限り、客観的な真理を持つ知性形態であるが、これらの諸関係は、商品生産が社会的な生産様式であるような特定の歴史時代にしか属していない。われわれがべつの生産形態を考察すれば、現代において労働生産物を覆隠しているこの神秘性はまるごと、たちどころに消え失せるであろう。」と言ってロビンソン物語に入っていく。


「最後に、共同の生産手段を用いて労働し、協議した計画にしたがって多くの個別労働力を同一の社会的労働力として支出するような自由人たちの集まりを描くことにしよう。ロビンソンの労働についてすでに述べたことはどれも、ここでは再現されている。が、それは社会的にであって、個別的ではない。ロビンソンの生産物はすべて、彼の個人的で占有的な生産物であり、したがって、彼のために直接的な有用性を持つ物品であった。結合した労働者の全生産物は、ひとつの社会的生産物である………


マルクスは、まず難破した船でのロビンソン個人の労働を描き、中世社会、家族内労働、さらに未来社会を考察することによって富が商品形態をとらなくても、社会が再生産されることを示した。

(蛇足だが、最後に引用した箇所はアソシエーション論の論拠として使われているが、ドイツ語初版、二版ではVereineが使われており、ラシャトル版でも、associationは使われていなかった。団体ぐらいの意味だろう。)


マルクスは、「宗教界は現実世界の反映にほかならない、労働生産物が一般に商品形態をとる社会、したがって、生産者たちのあいだのもっとも一般的な関係が彼らの生産物価値を比較することから成り立ち、またこの関係が諸物のこういった外皮のもとで彼の私的労働を同等な人間労働として相互に比較することから成り立っている社会、このような社会は、抽象的な人間を礼拝するキリスト教、とりわけプロテスタントや理神論等というキリスト教のブルジョア的な典型のうちに、最もふさわしい宗教的補足物を見出している…………一般的に言って現実世界の宗教的反映は労働と実際生活との諸条件が人間にとって、対同類、自然の透明で合理的な関係を、目に見えるようにする時に初めて消滅するであろう。」


商品世界の夢幻から脱出するには如何なる方法があるのか?


「物資的生産とそれに含まれている諸関係にもとづく社会生活は、自由に協力し、意識的に行動し自分自身の社会運動の主人公となった人間の仕事が、そこに現れる日にはじめて、その姿を覆い隠す神秘的な雲から解放されるであろう。だが、そのためには、社会内にひとそろいの物資的存在条件が必要であるが、この存在条件自体が、長くて苦悩にみちた発展の産物でしかありえない」ラシャトル版邦訳55


これにつけ加える言葉を僕は持たないが、資本主義が夢幻の世界で有れば、どうやってその夢まぼろしをみぬくことが出来るのかということで、昔、いわゆる物象化論について論争した。物象化ーマルクスはこの第一章でその言葉は使っていないーはどうすれば認識できるのかということを論争していた記憶がある。


サボる哲学のアナキスト栗原先生も述べるように、サボればいいのであるーと言ってもみんなでサボる必要があるのだが………


さて、最後に引用したのはラシャトル版資本論からであるがドイツ語二版では次のようになっている。ラシャトル版のマルクスの改訂を無視し、二版の記述をそのままにした現行版の編集の罪は大きいと言うべきであろう。よく読み比べて欲しい。


「社会的な生活過程の姿、すなわち物資的な生活過程の姿は、それが自由に社会化された人間の産物として、人間の意識的に計画された制御のもとにおかれるや否や、初めてその神秘的な霧のヴェールを脱ぎ捨てる。しかし、そのためには、社会の物資的な基礎または一連の物資的な存在条件が必要なのである。これらの条件そのものは、長くて苦悩に満ちた発展の歴史の、自然発生的な産物なのである」ドイツ語二版68