このような本を読みました。(読んだといってもちゃんとは読んでません)
実はこの本には野矢氏自身も執筆している大森荘蔵氏の関係者の以下の本のようなものかと期待していた。
しかし、この本がかなりがばって大森氏に教え子たちが挑んでいるという感じなのに対して、どうも野矢氏の本は、「挑む」と書いている割にはあまり挑んでないなあという感じだ。
その理由が最近別の本を読んでいてわかった。
まったくそうした内容は期待しないで読んでいたのだが、
池田清彦氏が、大森荘蔵氏と教え子の「大森荘蔵先生を囲む会」に中島義道氏から誘われて出席した時に、弟子が好きかっていうので「大森先生をいじめる会」じゃないかと思った。といい、しかし、大森氏が時々「あなたのおっしゃることの方が正しいかもしれません」ということをいうので本当に偉い先生だと思ったと。そして弟子も”だから”大森荘蔵先生を尊敬していたんだ。といっている。(190~191ページ)
小生にとっては大森氏の一連の著作は国語の問題と結びついて、どうもいい思い出はなかったが、お弟子さんたちの批判を読むと、哲学っていうのはいろいろな考え方があるのだなあ、ということがよく分かった。
どうも野矢氏に挑む方は、野矢先生の土俵でお弟子さんたちが転がるような感じで、どうも今一つ迫力に欠けていて、おそらくはそれは野矢氏という人がとてもいい人であまり普段から論争的ではないからなのかなとも思った。
野矢氏が論争的ではないかと思うのは、「哲学の迷路」と同じ産業図書で1990年代?企画された「哲学の教科書シリーズ」というのがあり、野矢氏もその中の『論理トレーニング』という教科書を書いている。今Amazonで出ているのは「新版」とついている。小生は、旧版にあったちょっと教科書シリーズの編者T氏への繰り言のようなところがなくなっていて、野矢氏が真に望んだ形にしたのが「新版」ということなのだと理解している。おそらくは新版のころには、もう編者T氏は一度終わった仕事と思って、それをチェックするなどということはしていなかったと思われる。そして、そのチェックをしたT氏(つまり野矢氏の繰り言の対象)はまさに先の『哲学の迷路』にも寄稿している。それだけでも、野矢氏があまり論争を好む方ではなかった、ということを感じ、T氏は大森氏にまさに論争を望むひとだったことがうかがわれる。
小生自身はどちらかというと、『哲学の迷路』のように、一見、素人が見ると無茶振りなくらいの議論が展開されていた、大森シューレのほうが魅力的に見える。池田氏もそういうお弟子さんと大森先生の関係に感心するところがあって、わざわざもう何十年も前のことを最近の書物で取り上げているのだろう。
こういう書物にはまさに教育者の先生の教育スタイルの写し鏡なのだなあと思わされた。(小生は実際野矢氏の授業を受けたりしたこともないので、推測でしかないですが。また内容自体は、野矢氏の広範な活躍の場を反映して、それをまとめていただいたという意味ではいい本だと思いました。あくまでも素人としては大森先生のお弟子さんたちのように論争的なほうが読んでいて引き付けられる(執筆者、応答者の双方に)ということです)