小生はこの本を同じ千早氏の『大和の最期、それから: 吉田満戦後の航跡』を読んだ後によみ、古本で入手してひとにもすすめていた。この度簡単に手に入ることになったことは非常に良かったと思っている。
この本のどこにひかれたかといえば、なんといっても徹底して機能的な文章とは何かということに焦点を絞っていることである。この人の別の本には事務について書いた本もあり、このひとはあくまでも実務家として文章を考え抜いた人なのであろう。しかし、それだけにはとどまらない。日銀の中で詩作などのおそらくは講評会のような中で、人の意見も聞いて磨かれてきた芸術的なセンスというものも感じる。そこが類書としての、本多勝一氏の『日本語の作文技術』より小生としてはまさっている点と感じているところだ。本多氏はなんといってもスター記者であるので、その文章について、もうあれこれいう人もいなかったのではないだろうか。しかし千早氏の書いていることには、第3者の視点からの厳しいチェックに常にさらされていた人ならではの、実務的な機能性と芸術性の両立を目指すことを強く感じる。
ということで、類書の中ではこの書物は非常に優れているものとして考える。
ところでひどいのはこの本の解説である。国立国語研究所の某氏が書いているわけであるが、そもそもがこのひとは千早氏を知るわけでもないらしい。また、内容も上記のような美点については全くふれず、これまで出版された国立国語研究所の先輩たちが書いた「悪文」についての本と比較して、なんだか素人の書いた本はやっぱり足りないね見たいな感じだ(露骨にはそこまでのいいかたはしていないが)。国語学研究所の先輩の著者が軍隊経験があるということを書いて、そこに共通点を見出したようだが、小生はそれは誤っていると考える。どうやら解説者は千早氏の事務についいて書いた本などには注意を払っていないようだ。さらには自分の書いた本は300ページで5分冊だとか、小型にしても300ページだったなどと自慢する始末である。小生はこの人の本も立ち読みしたが、はっきり言ってろくでもないことしか書いていないので全く購入しようとは思わないような本だった。ちくま学芸文庫でこの本の解説が某氏と予告されているのをみて、どういうことを書くのか不安だったが、”やっぱりね”という感じだ。こういった解説で通用するというのはこのひとの、国立国語研究所のなんとか所長という肩書がなせる業で、千早氏がおそらくは仕事の中で機能的な文章を考えてきたこととは全く対極。学者というのは学位をとればあとはほとんどよっぽどでなければ書くものについてあれこれいうひとはいないでしょうから。
このあたりは同じ月にちくま学芸文庫で発刊されたダントの『物語としての歴史』の解説者のピッタリ度合いと比べて、完全に失敗していると思う。なぜなんだろう。
前にもちくま学芸文庫に入った本で、期待して中身を読んだが、解説にがっかりしたことがある。そのときも解説者は自説を述べて、本体の本の評価にケチをつけるという感じであった。筑摩書房はもうすこし文庫の解説者を選ぶ際に考えたほうがいいのではないだろうか。読者は解説も含めてお金を払っているので、解説も文庫にとってはつけるのであればもう少し配慮が必要だと思う。繰り返しになるが同じ月のダントの解説はこれ以上ないという人選なのに、なぜ?どうして?である。