朝日新聞社の一冊の本に連載されていた久住昌之氏の東京都三多摩原人が文庫化された。
冒頭で東京以外の人間には三多摩といっても通じない、という。小生も他県から来たひとにはなかなか三多摩といっても通じないようであることは経験する。
おそらくはそういう方々にとって、都立高校の名前の南多摩高校や北多摩高校というのはちょっと理解が難しそう。豊多摩高校が杉並区だというのは自分も最近知ったのだけど。当然こういった改名は新制の学制になってからなので、戦後まだ十分にこういう感じだったことが分かる。
久住氏はお行儀よく中学校のスポーツでは”三多摩大会”があったというが、小生の記憶ではもっと露骨な”都下大会”という言い方がされていたように思う。これは三多摩原人にとっては結構ひどい言い方のような気もするが、三鷹市のコンサートホールのアンケートでは、どこから来たか、というのに、“都下”という区分があった(今もあるのかも)。都立高校も第7、8,9学区が三多摩の高校の学校群だったらしい。らしいというのは小生が80とか90とかの学校ってあったっけ?という感じだったからだ。それは当然でWikipediaで確認したら、70台の学校群しかこの3学区にはなかったみたいだ。へーっていう感じで久住さんは第8とか9があることをよく知ってたんだなあと感心した。ちなみにもっと他の人たちに通じないい方には南多摩をさらに分けたような言い方の”八南”という言い方もありますね。今でも残っているようですが。
久住氏は三鷹市民としては、三多摩というのが東京ではないという感覚がなかったようなことを書かれているが、そうなのか?何しろ電話番号が東京23区は03だけど、三多摩は042Xという4桁だった。Xが違えば市外通話であり、高校でほかの市の友達などいれば電話するときに市外通話になることも多かった。
また、なんといっても都営バスや都営地下鉄は三多摩にはほとんどない。ないといってもいいくらいだ。そのあたりで結構三多摩原人の非東京人意識は自然と養われていったのではないだろうか。
この本を読むと三多摩を成り立たせているのは川なんだな、という気がする。そもそもが三多摩は古くから人間が住んでいたらしい。それは川があって水が豊富だったこともあると思う。また、地盤も結構強固だ。そして久住氏は町田のところで書いているが、三多摩は結構戦後米軍基地が多くを占めていたり、その影響も大きかった。やっぱり東京23区とは違うなあと。
久住氏は仙川駅のあたりの記憶も書いているが、今でも仙川駅の東側、世田谷区と調布市はものすごい差があると思う。昔はもっとなのだろう。今でも家の密度が全然違うと思う。この差はやはり調布を流れる野川と仙川の川がつくっているのだろうなあと思う。
現在の三多摩は久住氏が書いているように70年代の東京のベットタウンという役割が、当時東京に流入してきたサラリーマンたちの高年齢化に伴って、あちこちで高齢者の街ができている。70年代は23区にある企業の本社のほか、三多摩には工場も多かった。それが、いつのころからか、どんどんマンションに変わっていった。そこで確かに若い人も増えたが、しかし働く工場はすでに近くあるわけではない。大学などはどんどん23区に戻っている。
そのような雰囲気は久住氏が書いているあちこちの状況からも読み取れるところだ。
また武蔵陵墓というのは小生の中では多摩御陵であったが昭和天皇が埋葬された後変わったらしい。こどものころこの”たまごりょう”という音は卵と関係を喚起させたものだ。地図を見るとスタバもそばにあるようでどうなっているのかなあ。郊外型のスタバなのか。一般のひとの墓地もあるから結構いく人がおおいのか。
それにしても今後三多摩はどうなるんだろう。同じ東京にあって、2020年の五輪でもほとんどはウォーターフロントに投資がされた。今後も投資がされないのであれば、住民の多さで負担は多い、しかも高齢者も増える、企業は出ていく、ということで、とてもやっていけないという感じになりそうだ。
ということで読書感想というよりは、久住氏の書いているところから自分が喚起されたところが多くそれを書いてみました。